07.10
2007年7月10日 シリーズ夏・その5 宿題
「誰にでも振り返ると胸が痛みだすような、幼いころの夏の思い出がひとつぐらいはある」
真保裕一著、「発火点」(講談社文庫)の書き出しである。
「シリーズ夏」を書いている時にこの本を手にしたのも何かの縁であろう。この一説を読みながら、私の幼いころの記憶をほじくり出してみた。
ない。胸が痛みだすような記憶はまったくない。
この時日から導き出せる結論は2つしかない。
私が変わり者で、「誰にでも」の範疇からはずれた人非人なのか。
著者の筆が滑ったのか。
さて。
胸が痛む思い出はないが、嫌な思い出はいくつもある。その代表は、夏休みになると山のように積み上げられた宿題である。あんなもの、何かの役に立ったか?
夏休みの友。あの冊子を渡された生徒が、友あり遠方より来たる また楽しからずや、などという心境になるはずがない。楽しいはずの夏休みに、頼まれもしないのに乱入する邪魔者に過ぎない。このようなお邪魔虫を、普通、友とは呼ばない。この冊子の名付け親は、日本語の破壊者である。
絵日記。絵付きで残したい出来事が夏休みの40日間継続することはありえない。日常がそんなに起伏に富んでいたら、疲れて果てて10日もすれば寝込むに決まっている。だから、この日誌も毎日は書けないのだ。
というわけで、絵日記を書かない日が連続する。時には、昼間遊びすぎて夕食を食べ終わるとすぐに眠くなる日もある。翌朝は、さてこの1日をどうやって遊び倒してやろうかという頭は働くが、昨日のことを思い出そうなんて気はまるで起きない。かくして、空白のページは空白のまま20日も30日も放っておかれれる。
あわてるのは、新学期が見えてきてからである。やばい、あと3日で新学期だ。絵日記が真っ白。どうしよう? これから40日分書くのは不可能だ。えーい、4日に1回かいたことにしよう。そうすれば、10日分の日記を捏造すれば済む。ん? 天気はどうする? 分からないぞ! えーい、何日の天気がどうだったかなんて、先生だって覚えているはずはない。これも、日記の中身にあわせて適当に作っちゃえ。
と、人をごまかすことばかり考える子供を作ってどうしようというのだろう?
絵を描かねばならぬ。これも、あと3日で新学期という時期の作業になる。自慢ではないが、もともと私は絵が下手である。それが、時間に追われて描いていい物ができるはずがない。時間に追われずに描いてもろくなものはできないが。
いずれにしても、身に付くものがあるはずがない。画用紙と絵の具の無駄でにすぎないのである。
工作。この文章を書くに当たって、さて、私は小学校の夏休みの宿題でどんな物を作ったか、と考えてみた。ほとんど思い出さない。やはり無駄だったのだ。
1つだけ思い出した。立体地図である。等高線に沿って切り抜いた厚紙を張り重ねる。そうすると地図に立体感が生まれ、彩色をしてニスを塗ればなかなか見応えのある物になる。私は確か、阿蘇を作ったように覚えている。新学期の作品展示会で高い評価をいただいた。
だが、である。立体地図は私のオリジナルではない。母がどこからか見つけ出し、立体地図キットを買ってきたのである。私の作業は説明書の指示に従って厚紙を切り抜き、のりを付けて張り重ね、色を付けてニスを塗ったに過ぎない。
かまぼこ板を自分の手で削り、裏にゴムとスクリューを取り付けたボートの方が、さてデザインをどうしよう、から始まって遙かに手間暇がかかる。オリジナリティもある。このボートが全く評価されず、私の立体地図がどうしてこれが高い評価を得るのか?
教師とは、見た目の良さに目がくらむ存在なのか? だから、見た目ばかり気にし、誰も見ていないと判断すればとんでもないことをしでかす子供が出来上がるのか?
算数のドリル、漢字の書き取り、読書感想文、朝顔の観察、昆虫採集……。どれもこれも、子供から楽しい夏休みを奪う目的のためだけにある。夏休みの宿題をきちんとやったから学力が上がったという話は聞いたことがない。自然に親しむ子供が増えたとも思えない。文章力が上がった例もないのではないか。新学期になっても、成績のいい子は成績が良く、虫が嫌いな子は相変わらす虫が怖く、うまく文章を書けない子は相変わらず書けないのが現実だ。
夏休みの宿題など、何の役にも立たない。
おそらく、大人になったにもかかわらず、給料をもらいながら40日間も休みを取ることができる教師という恵まれた職業に就いた人たちの、世間への後ろめたさが大量の宿題となって子供たちの前に積み上げられるのではないか?
私たちは休んではいますが、子供たちにはちゃんと勉強をさせていますからご心配なく。
夏休みは、もっと遊んでいたかった。冒険をしていたかった。大人はどうして夏休みもなく働いているのか? 私は大人になんかなりたくない! 真剣にそう思っていたのに、いつの間にか大人になった。
あれから25年。私の長男が小学生になった。初めての夏休み。私は長男に言った。
「宿題は、今日はここまでやると計画をたててやりなさい。毎日、朝涼しいうちは勉強だ。遊んでばかりいるとバカになるぞ!」
言いながら思った。なるほど、夏休みの宿題とは、私をよりよくするためにあったのではなく、私がバカになるの阻止しようという教師の親心であったか。
子を持って初めて分かる親心
でも、本当にそうなのだろうか。夏休みの最後の3日の悪戦苦闘がなくても、いま程度の大人にはなっていたような気もするのだが。この日誌だって、誰にも強制されないのに、夏休みの絵日記よりは頻繁に書いているもんなあ……。