07.24
2008年7月24日 続シリーズ夏・その5 キヤノンデミ
暑い。
22日に行った金沢も暑かった。
23日に戻ってきた東京も暑かった。
そして、今日。新橋駅から会社まで歩く間に、足に汗をかいた。上半身では大量に発汗する私でも、足から汗を流すことはあまりない。
猛暑である。ああ……。
話は少しだけさかのぼる。
我が家の大きな荷物が届いたのは、東京に出発する10日ほど前だったろうか。
封を解くと大きなトランクが現れた。ブルーのビニール製で、派米少年のロゴが入っている。このトランクを抱えて太平洋を渡る。なんだかドキドキする。
開けてみた。紺のブレザーとクレーのパンツがあった。これが派米少年の制服らしい。胸のポケットにはワッペンがついている。
何はともあれ、試着した。体にピタリとフィットした。そうか、どこかの洋服屋さんでで体の寸法を測ってもらったっけ。
おぼろげな記憶を辿ると、中学3年の私は、身長178cm、体重65kg、ウエスト76cm程度であった。そう、誰もが羨ましがる美しい体型である。モデルになってくれという依頼が来なかったのが不思議なほどだ。
と書きながら、ふと視線をしたに降ろす。あれが、こうなる。時の経過とは非情なものである。
ストライプのネクタイも入っていた。15年の人生で初めて手にするネクタイだった。無論、詰め襟の制服しか持っていない中学生が締め方を知るはずもない。
叔父が指導役を買って出た。
「細うなっとる方ば左にして、右になっとる太か方ば前からそれに1回巻き付けてから、ほら、ここに出来た穴に入るっとたい。それば引っ張っと締まるやろが。締まったら、後ん細か方ば引っ張りながら結び目ば上に上げて……。ああ、でけん。それじゃ長すぎっと。下手くそやねえ!」
いま思えば、プレーンノットという締め方である。どうやら叔父は、この締め方しか知らなかったらしい。あわせていえば、彼はネクタイを締める歳の常識であるディンプルの存在も知らなかった。
いまの私は、プレーンノットもウインザーノットも、セミウインザーも、ディンプルも知っている。冬場も自主的にクールビズを実行している私には、取りあえず不要な知識ではあるが。
いやはや、必要なものはすべて頂ける。自前で用意するものといえば、下着と靴下とカッターシャツ、それにベルト程度だ。こんなものはアメリカに行こうが行くまいが必要なものである。我が家にだってストックはあった。
いい友達の1つに「ものくるる友」をあげた吉田兼好の心理がよく分かる。何でもただで揃うって、気持ちいい……。懐の心配を一切せずに済むというのは、これほど心地いいものか……。
必需品はそろった。私は、大きなトランクを抱えて上京した。
いや、頂けるものはそれだけではなかった。東京に着くと、新たな支給品が待っていた。
まず、革靴である。布製の靴を履いて到着した私を、新聞社の人が銀座に連れ出した。目的地はワシントン靴店である。
「はい、この紙の上に足をおいてください。これから足形を取りますからねえ。はい、両足とも取りますよ。人間は右と左で微妙に違うんですよねえ」
そんなことをしゃべりながら、店員さんが私の足形を取った。ここの方をもとに、私の足にピッタリ合う靴を作るのだという。
えっ、靴って靴屋さんに並んでいるヤツから選ぶもんじゃないのかい? というか、手に入る靴に足を合わせるもん何じゃないのかい?
私は生まれて初めてオーダーメードの靴、というものの存在を知った。もっとも、知識は得たが、その後この知識を活用する機会には恵まれていない。
(ん?)
ここまで書いてきて、やや自信を失った。オーダーメードの靴って、そんなに素早く仕上がるものかい?ひょっとしたら、アメリカに出かける一月ほど前に上京させられたのだったか? 記憶が曖昧である。
型を取り終えて新聞社に戻った。
肩掛けのバッグがあった。白地に鶴のマークとJALのロゴが入っていた。我々をアメリカまで運び、再び日本に連れ帰ってくれるのは、日本のフラッグキャリア、日本航空である。だからプレゼントしてくれたのか。それとも、派米少年規格のスポンサーになっていたのか。
カメラをもらった。キヤノンデミ。ご年配の方は、ひょっとしたらご記憶かも知れない。「ハーフサイズ」を売りにしたキヤノンの小型カメラである。
35mmフィルムを使い、35mmカメラの2倍の枚数が撮れる。12枚撮りのフィルムなら24枚、24枚撮りなら48枚、36枚撮りなら72枚の写真が撮れる。35mmカメラだと、撮影した1コマの横幅は36mmあるが、横幅を18mmにして、1コマ分のところに2コマ入れてしまう。先行したオリンパスペンが人気を博したため、キヤノンも参入した市場である。
1本のフィルムで2倍の写真が撮れる。それが売りになる時代は貧しい時代である。我が家は貧しかったが、我が家ほどではないにしても、世の中全体も豊かではなかったのだ。
それにしても、何であのカメラをもらえたんだろう? キヤノンも協賛企業だったのかな?
ネクタイの結び方を教えてくれた叔父は、カメラが趣味だった。彼は渡米する私に、彼の愛機を貸してくれた。滅多に触らせてもらったことがないキヤノンの高級機である。私に手渡しながら、私の耳にたこができるまで、
「落とすな。壊すな。盗まれるな」
と叔父がいったことはいうまでもない。
私はこの高級機に、カラーのポジフィルムを装填した。叔父の指示だった。
せっかくだから、カラーで撮ってこい。だが、カラーのネガフィルムを使えばプリントしなければならない。プリン代は高額である。ポジフィルムならプリントしなくてもスライド映写機で楽しむことが出来る。必要ならプリントだって出来る。だからポジを使うのである。
貧しい時代の暮らしの知恵である。
そして頂いたキヤノンデミには白黒のネガフィルムを入れた。白黒なら、それほど金をかけなくてもプリントが出来る。
これも叔父の指示だった。
叔父は、自分では決して見ることがないであろうアメリカの大地を、私に託したカメラを通じて見たかったのだろう。
さて、これで装備は整った。
だが、飛行機はまだ飛び立ってはくれなかった。