2009
08.04

2009年8月4日 本

らかす日誌

本を買いたくなった。
傷はぜったい消毒するな 生態系としての皮膚の科学」 (光文社新書)
という新書である。週刊朝日の書評欄で取り上げられていた。それを見て読みたくなった。

桐生市内にも書店はある。老舗らしいのはシロキヤ書店である。かつてはにぎやかな商店街であったらしい本町通に店を持つ。端正なたたずまい、ひょっとしたら本に限りない造詣を持つのではないかと思わせる(本当はどうなのか知らないが)店員が往時をしのばせる。が、この店、狭い。よって、蔵書が少ない。欲しい本が、しばしばない。

新興で、桐生市屈指の蔵書を誇るのは戸田書店桐生店だ。いかにも安っぽいプレハブじみた建物、 アルバイトに毛が生えた程度ならぬ、毛も生え揃わないアルバイトに違いない店員は、最近、書籍というのはこの程度のもに成り下がったかと侘びしくもなるが、まあ、それが現実である。幾分かの不快感を感じながらも、何しろ蔵書数が多いので頼らざるを得ない。

今日はまず、戸田書店桐生店に足を運んだ。ここには、新刊なのか売れ筋なのか判然としない新書コーナーがある。まず、このコーナーを見る。今週の週刊朝日で紹介されているのだ。ここに並んでいても不思議ではない。

運転用の度付きサングラスから日常用の遠近両用眼鏡に掛け替えて(こうしないと、文字の判別が苦しい)書棚を右上から左下に見る。
ない
そうか、ここには並んでないのか。それじゃあ新書コーナーに行くか。馬鹿だなあ。今週の週刊朝日に載ってるんだから、平積みにして客を待つぐらいの商魂はないのかね。まあ、毛も生えないアルバイトじみた店員にそこまで求めるのは酷か。

新書コーナーまでは30歩ほどである。還暦を迎えたからといって歩けない距離ではない。素早く移動し、平積みにされた新書を隅から隅まで見た。
ない

えっ、今週の週刊朝日で見たばかりだぜ。ないってことはないだろう。棚を隅から隅まで見た。
ない。

ない、ない、ない! おいおい、 戸田書店、センス悪いなあ。あんたんとこ、どうでもいい本しか並べてないのかい?
そうだ、こんな時こそシロキヤ書店だ。売り場は狭いが、その道のプロを思わせる店員がそろっているではないか。センスのいい蔵書選びをしているに違いない。だからこその老舗だもんなあ。

愛車を転がして本町通に向かった。シロキヤ書店に入る。ほかには目もくれず、新書コーナーに歩を進める。

「傷はぜったい消毒するな、ね。どこにあるかな?」

結論を急ごう。
なかった。憮然として店を後にした。店員が、私の背中に

「いつもありがとうございます」

と声をかけた。
おいおい、挨拶をちゃんとするより、本を揃えてくれないかなあ。書店としてはそれが最大のサービスだろ?
と悪態をつきたくなるのをぐっとこらえ、自宅に戻ってamazone.co.jpで発注した。
そうか、桐生市で暮らすとは、ネットに依拠するということか。アマゾンを支えているのは地方の住人なのか……。
それにしても、悪態をぐっとこらえるあたり、私も還暦を迎えて初めて大人になったか。

 

本の話を書いたついでに、最近読んでうなった本を紹介する。

世界は分けてもわからない」(福岡伸一著、講談社現代新書)

勘違いして買った本である。タイトルを見た時、

「あ、これは専門馬鹿をこき下ろした本だな」

と思った。まあ、知識とは奥深いもので、専門家になるとひたすら深く掘り進むしかないらしい。掘って掘って、同じように同じ場所を掘り進むライバルと

「俺の方が深いぜ」

と自慢しあっているのは専門家の一面である。

「でもなあ、あんたたち、それで世の中がわかるのかよ」

といいたくなる気分を私は持っている。専門性がない仕事を続け、従って専門知識に欠ける結果となった私のコンプレックスの裏返しである。それは重々承知しながら、

「だからどうした」

と啖呵を切ってみたくなる。弱い犬はよく吠えるのだ。

そんな次第で、専門の土壌をどれだけ深く掘ってみたところで、世の中のことはわからないんだよ、という論考だと思って手にした本である。ところが、当てがはずれた。
この著者、滅茶苦茶専門家なのだ。それも、分子生物学という最先端分野を掘り進む人なのだ。
ま、いってみれば、敵陣営に属する人である。

とはいえ、買ってしまったのだ。敵陣営の本だからといって読まずに捨てるのは惜しい。と覚悟を固めて読み始めた。引き込まれるのにそれほど時間はかからなかった。

誰かに見つめられている。そんな経験はおありだろうか? 私はある。東京の通勤電車で私に向けられた視線を感じ、ふと目を向けると、いつも気になっていたあの娘が私に思いのこもった熱い視線を投げかけている。お嬢さん、そんなに私って魅力的かな?

願望を込めていえば、そんな経験がある。
だけど、誰かに見つめられているのを感じるなんて、物理学の法則に反するオカルトではないか? たまたま目があったのをそう思いこんでしまうだけではないのか?
と、これまでの私は考えていた。
ところが、福岡先生によると、物理学で説明できる。

不正確になるのを承知で書くと、人間の目の奥には反射板があるのだそうだ。目の奥に鏡があるといってもいい。フラッシュをたいて写真を撮ると目が赤くなる赤目現象は、その証拠だそうだ。なるほど、である。
で、視線というのは、外界の光をこの反射板が反射し、目を向けた方に光を出す、ということらしい。そして、私たちの目は、解像力は中央部分が高いが、かすかな光を感じる能力は周辺部分が優れている、という。
だから、目の中央部分で本の活字を追っていても、目の周辺部分はあの美しい娘の目が発するかすかな光を感じ取る。これが視線の正体だと、福岡先生はいう。
なるほどなあ。あれは私の思いこみではなかったんだ。

書名の由来もおもしろかった。
さて、人とはどういうものか。それを理解しようと思って人をパーツに分ける。皮膚があり、脂肪層があり、筋肉があり、その中に骨がある。血管が縦横に走り、同じように神経繊維が張り巡らされている。脳があり、食道、胃、腸があり、肺も腎臓も肝臓も心臓もある。これらは、人を構成するパーツである。
人を知るためにはパーツを知らねばならない。1つ1つを取り出してつぶさに研究する。膨大な研究成果が積み上がる。
でも、ちょっと待て、というのが福岡先生だ。

人間をパーツに切り分けるのはいいでしょう。でも、切り分けたパーツを組み合わせれば人間ができるのですか?
まだ動いている心臓、生きている脳、食道、胃、腸……。それを組み合わせて生命を作り出すことができますか? できないのではないですか?

それが書名の由来なのである。まあ、私の頭に残っていることで書いているのだから、正確性には目をつぶっていただき、正確に理解したいと思われる方は、この本を手に取っていただきたい。

様々な蒙を啓いてくれた本だが、もっとも印象に残ったのは、次のようなことだ。正確性を期すために本文から引用する。医者や政治家が脳死を人の死と決めたことに関連する。

 人の死を、脳が死ぬ時点に置くのならば、論理的な対象性と整合性から考えて、人の生は、脳がその機能を開始する時点となる。つまり「脳始」である。脳始論に立てば、明らかに、受精卵はまだヒトではない。細胞分裂が進み、その中から神経系の初発段階が形成され始めるのは、受精後およそ二十日前後のことである。脳の神経回路網が構築され、脳波が現れるのはさらにずっとあと、受精後二十四~二十七週のできごとである。いわゆる意識が—それがどのようなものかはここではあえて深入りをしないけれど脳の活動の直接的な産物とするなら—生まれるのはこのあとまもなくのことだろう。
 脳死がヒトの死を前倒ししたように、「脳始」は定義のしかたによっていくらでもヒトの生の出発点を先送りしうる。
 しかし何ゆえにそんなことが必要なのか。それは脳死と臓器移植の関係と全く同じである。死んだと定義した身体から、まだ生きている細胞の塊を取り出したい。それと同じ動因が、ヒトの出発点近傍にも存立しうる。受精卵およびそれが細胞分裂してできる胚が、脳始以前の、まだヒトでないものと定義しうるのなら、それは単なる細胞の塊にすぎないとみなしうる。そうなれば、胚を再生医療などの名目でいくらでも利用しうることになる。
 (中略)
 私たちが信奉する最先端科学技術は、私たちの寿命を延ばしてくれてるのでは決してない。私たちの生命の時間をその両端から切断して、縮めているのである。

 この一節を読んで慄然とした。
専門知識とは、場合によっては、あるいは人によっては、世の本質を見抜く手段にもなるらしい。

ああ、専門分野と専門知識がほしかった……。

無専門にコンプレックスを持つ私に、改めてそう思わせた本である。