10.28
2009年10月28日 やっちまった……
午後4時前だった。
間もなく目的地のショッピングモールに着こうというとき、携帯電話が鳴った。仕事時間中である。出ないわけにはいかない。
「もしもし」
といいながら、愛車を駐車スペースに導いた。ここの駐車場は平場である。車止めもない。あいている駐車スペースを見つけ、大きく右にハンドルを切って頭から突っ込んだ。前には白い乗用車が止まっていた。その後ろにつける。
シフトレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキを引く。ボタンを押してエンジンを止める。毎日繰り返す基本動作である。流れるように美しい一連の肉体の動きである。
電話に受け答えしながらでも間違うはずがない。
右足をブレーキから離した。その時だった。愛車が、ガクンと前に出た。あわててブレーキを踏む。
「追突された?」
そんなショックだった。振り返った。後ろには何もいない。では、どうして愛車が前に出た?
まあ、いい。
私は運転席に座ったまま、電話の受け答えを続けた。
ん? 前の車の中で動くものがある。子どもだ。こちらをのぞき込んでいる。不躾な視線だ。子どもを車に残して買い物をする親。躾の行き届かない家庭に違いない。
こんな視線は無視するに限る。気にせずに電話を続けた。
子どもがドアを開け、車外に出た。おい、何やってんの? なにやら、私の車と奴らの車の間をのぞき込んでいる。おいおい、何してるんだ?
えっ、ということはあれか? この子は、車中で何らかのショックを感じ取って私をのぞき込んだのか? 悠然と電話を続ける私を見て、しびれを切らして車外に出たのか?
俺の愛車、前の車にあたった?
電話を左手で耳に押しつけたまま、とりあえずエンジンを再始動し、少し後退させた。エンジンを止める。電話を続ける。
電話を終え、車外に出た。私の車と、前の白い車を見る。おや、私の車の前部に、ほんの少しだけ塗料のはげたところがある。向こうの車を見る。ほんの数ミリ、塗料がはげたようなところがある。
やっぱり、あたったのか?
「君、お父さんかお母さんは?」
「買い物」
確かに、ここはショッピングモールである。買い物をしているには違いあるまい。が、困った、子どもを相手してもらちはあかない。
と困惑していると、再び電話が鳴った。
やりとりしている間に、母親らしき人物が近づいてきた。なにやら子どもと話している。電話を終えて彼女と話した。
「サイドブレーキをを引いてエンジンを止めた直後に車が動いちゃったんですよ。ひょっとしたら、少し当たったかもしれない。当たったとしたらここだと思うんですけど」
と向こうの車のリアバンパーに着いたうっすらとした傷を示した。
「はあ、そうですねえ。傷ができているようです」
起きてしまったことは仕方がない。
「で、どうしましょうか。幸い傷は小さいし、そちらで修理して頂けますか? この程度の傷なら、1万円もかからないと思うので、とりあえず1万円お渡ししますから、それでよろしいですか?」
私のいまの暮らしに1万円は大きいが、ま、この際は仕方ない。
「いえ、ちょっと主人に電話をしないと」
彼女は携帯電話を取り出した。妻には決定権が皆無の家庭らしい。
「駐車場に止めてたらね……そうじゃないの、私がぶつけたんじゃなくて……違うってば。どうしてそんなにポンポン言うのよ。話をちゃんと聞いてくれたっていいじゃない。私じゃないんだって!」
おやおや、電話で夫婦げんかを始めてしまった。夫婦とはどこでも似たようなもののようだ。
が、ここで喧嘩をされたのでは、いつまでたっても事態は先に進まない。
「私が電話に出ましょう」
彼女の携帯電話を受け取り、事情を話した。1万円の提案もした。説明を終えると
「妻と代わってほしい」
というので、携帯電話を目の前の女性に返した。受け取るなり、彼女は電話を切ってしまった。
「あの、代わってほしいといわれたので電話をお返ししたのですが……」
先が思い遣られる夫婦である。彼女は、再び夫に電話をかけ、話した。
「あの、もういいです」
と彼女はいった。もういいです、とは私を無罪放免するということであろう。
「あのう、お金は……」
という私に、彼女は同じ言葉を繰り返した。そこまでいうのなら、本当にいいのだろう。
「そういうことなら」
私は名刺を渡して現場を離れた。なんだかもうけたような、でも、私の車に残った傷の分だけ損したような、不思議な気分だった。
それから1時間足らずたった頃、私の携帯電話が鳴った。電話番号が表示されている。ということは、私の電話帳には登録されていない人物からの電話である。誰だ?
出ると、男性の声だった。
「さっきの車の者なんですけど、車をディーラーに持ってきてまして、見てもらってるんです」
なんだ、無罪放免じゃないのか。が、私には抗弁のしようがない。
「ああ、そうですか。どうぞ修理してください」
やっぱり金がかかりそうだ。
「で、ディーラーの人が話したいといってるんですけど」
代わってもらった。電話に出たディーラーの担当者に、私はいった。
「どうぞ修理してください。よろしくお願いします。お支払いは私がしますので」
担当者がいった。
「それで、保険は使われますか?」
1万円もかからない修理で保険を使う人はいないはずだ。いや、他人はいざ知らず、私は使わない。
「いや、あんなちっぽけな傷ですから、たいして費用はかからないでしょう。自分で払いますから」
「あのー、傷だけじゃないんです。バンパーが歪んでまして」
バンパーが歪んでる? あの程度の接触で!?
「といわれても、私の車の方は塗料が少しはげてる程度なんですけどね。それでバンパーが歪みますか?」
「はい、押されたはずみで右側が少し飛び出してまして」
ホントかよ! バンパーって、時速10km前後までの衝突だったら、自然に復元するんじゃなかったっけ?
とは思うが、今回は私が弱い立場である。怒鳴りつけるわけにはいかない。
「分かりました。で、修理費はどの程度かかるんでしょう」
「10万円までは行かないと思いますが……」
即座に決断した。
「保険を使います。それを前提に十分修理してください」
ふーっ、あの程度の接触で10万円ね。あの程度の接触で歪むバンパーなんて、設計がおかしいんじゃないの?
いいたいことはいくつもある。が、今回ばかりは通用しそうにない。保険会社に電話をし、必要な手続きをした。
ここまで書き忘れていたが、向こうの車の所有者には、何度も謝罪したことはいうまでもない。 何しろ彼には、まったく非はないのである。
自宅兼事務所に戻った午後5時過ぎ、保険会社から電話が来た。事実関係の確認、責任は100%こちらにあることの確認、保険を使って修理することの確認、等級が3ランク差gることの確認。確認、また確認である。
すべての確認が終わったあと、電話の主はいった。
「ところで、大道さんの車の方はどうですか?」
「はあ、少し塗料がはげているだけで、ほかは何ともないようなんですが」
「修理はされますか?」
「いや、この程度なら放っておいてもいいんじゃないか、と」
「老婆心ながら申し上げますが、安堂さんは車両保険に入っていらっしゃいますよね。ということは、車両保険でそこの修理をされても、当社としてはひとつの事故として扱いますので、等級の下がり方は同じなんですが……」
なるほど、そりゃあそうだ。保険を使って修理をするのなら、そこまでやらなくてはばかばかしい。まともな頭で考えれば、当然そうなる。20数年ぶりに起こした自責事故で、常日頃は明快さをもって知られる私の頭脳も、多少の混乱をきたしていたらしい。
Good Adviseである。
「確かにそうですね。はい、私の車も修理します。ご親切なアドバイス、ありがとうございます」
損したような、得したような、不思議な一日であった。
にしても、である。どうして私の車は動いてしまったのか? シフトレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキを引き、エンジン止めてフットブレーキを開放した。一連の動作に間違いはなかったはずだが……。
エンジン停止直後は、トルクコンバーター内の油がまだ止まっておらず、タイヤを動かそうとするのか?
毎日車を運転して目的地に向かうのが、桐生に来てから私の職務スタイルだ。同じ事故は2度と起こさないよう注意しなければ。
みんなの願い、交通安全!