04.05
2011年4月5日 絶句
ふと、出会ってしまった。
出会ってしまったのが、絶世の美女で、出会った瞬間から彼女が熱い視線を私に注いで、という話なら気楽に書ける。いや、家族も目を通していることに配慮しなければならない「らかす」だが、それでも書きようはある。彼女が、夜の食事をせがみ、
「今日は帰っちゃいや!」
といったとしても同じである。
書きようで、何とかなる。
だが、出会ってしまったのは、違ったジャンルに属する人びとであった。彼らは、福島県南相馬市から桐生市に逃れてきた。
3月11日午後2時46分。恐らく、日本の歴史に永遠に刻まれ続けるであろう時に、父親は職場にいた。生コン輸送車の運転が仕事である。
その日は仕事が早く終わり、輸送車を洗っていた。突然、大地が揺れた。
「原発関連の生コンの会社だから、輸送車に生コンを積み込むプラントがあるのよ。35mぐらいあるかな。それが、ゆっさゆっさと揺れるのよ。こりゃあ、倒れっかもしれない。そう思ったから、倒れても下敷きにならないところを探して逃げ惑ったんだ」
揺れが収まれば、平常心が戻る。戻れば、心配になるのは家族だ。海から50mほど離れた自宅には、身体が自由でない両親と、お産で戻っている長女、それに2月末に産まれたばかりの初孫がいた。
「すぐに電話をしたんだけど、全く通じない。こりゃあいかん、って思ったんで車に乗って吹っ飛んでいったのよ、海岸沿いの道を」
津波、は心配じゃなかった?
「津波? そんなことは考えもしなかったな。それより、本棚とかが倒れて、両親や娘、孫が下敷きになってんじゃないかって心配で」
道はすいていた。20分ほどで自宅に戻り、庭に車を止めて自宅に駆け込んだ。2階で暮らしているはずの長女が1階にいた。顔をあわせた瞬間、
「お父さん、どうしよう?」
といった。お母さんはどうした、長男はどこに行っている? そんなことを聞き始めたときだった。後ろの方で
バリバリ
という音がした。何だろうと振り返った。窓の外が真っ白だった。えっ、何だ、これ? 庭に止めていた車がふわりと浮き上がった。そのまま、家に突っ込んでくる。窓ガラスが割れた。水の中にいた。
「いや、娘の手を握る暇もなかった。いま思うと、バリバリ、って音は防風林の松が折れる音、真っ白かったのは波しぶきだろうな」
お父さんは津波にのみ込まれ、右に左に、上に下に翻弄された。
「何にも考えられなくて。あーっ、息が苦しくなった。これで死ぬんだな、って観念したとき、ぽっかり頭が水面から出たんだ」
自宅の裏には、鉄骨でつくった倉庫がある。自分の田んぼで取れる米を貯蔵しておくためのものだ。窓には泥棒よけの鉄格子がはめてある。
「ぽっかり頭が出て意識がはっきりすると、俺、その鉄格子を握りしめていた。夢中で捕まったんだな」
すぐに、津波の第2派が襲った。それも鉄格子にしがみついてしのいだ。
「そのあとはたいした波は来なかった。やっと助かった、って思えてね」
この日は、長男の中学校の卒業式だった。母は卒業式に出たあと、知人を病院に見舞っていた。そこで揺れを受けた。
「携帯電話を持ってきてなかったので、すぐに車で自宅に向かいました。おじいちゃん、おばあちゃん、それに娘と孫が心配で」
自宅近くまではたどり着いたが、道路が冠水してそれ以上は進めない。どうしようかと考えていたとき、向こうのコンビニの駐車場から長男の声が聞こえた。
「母ちゃん、津波が来る。高いところに逃げろ!」
息子は知人の車に乗り込んだ。それを確認して自分も車に戻った。いつの間にか、車はパンクしていた。でも、そんなことをいってる場合ではない。パンクした車を励ましながら、高台にある中学校に向かった。その日の朝、長男の卒業式に出たばかりの中学校である。
次女は、勤め先の水産会社にいた。揺れた。上司が言った。
「これはやばい。高いところに逃げろ!」
車で高台に向かった。道が渋滞し始めた。途中のコンビニに車をいれ、徒歩で高いところに向かった。高台に着くと、会社の仲間を探した。上司が言った。
「津波が来る。ここにいろ!」
家族が心配になった。が、電話は全く繋がらない。
卒業式を終えた長男は、その足で友人の家に遊びに行った。そこで揺れに見舞われた。しのいだと思ったら、余震が来た。思わず家を飛び出した。しばらくすると、別の友人の親が車で来た。
「家が心配だろ。乗せていく」
高台から降りてコンビ近くまで来たとき、消防車が
「津波が来る。高台に逃げろ!」
と叫んでいるのを聞いた。コンビニで遠くに母の顔を見た。
「母ちゃん、津波が来る。高いところに逃げろ!」
母が気づいた。これでいい。再び友人の親の車に乗り、高台の友人の家に戻った。
津波が収まった。長男は
「お前の母ちゃん、中学校に逃げてる」
と知らされ、車で送ってもらった。
父は、津波が収まると、長男を捜しに歩いた。自宅で長女と最後に話したとき、長男は友人宅に遊びに行っていると聞いていた。自宅からは7、8kmある。ただ歩いた。たどり着くと、
「ああ、中学校に行った」
と聞かされた。
「でも、お前、血だらけじゃないか」
いわれて初めて気がついた。頭や顔、手が血だらけだ。津波に翻弄されたとき、あちこちやられたらしい。
「だけどね、医者っていったっていないんだから。ま、この程度で死ぬことはないだろうと」
中学校にたどり着いた。妻と長男がいた。
次女は、家族の所在を求めて避難場所を回り歩いた。最後に中学校に行った。父母と弟がいた。外はもう真っ暗だった。腕時計の針は午後8時を回っていた。
その日は、中学校の会議室らしいところで、20人ほどで過ごした。ありがたいことに、学校が石油ストーブを出してくれた。だが、水道がやられ、トイレも使えない。父は、ここにたどり着く途中、知人宅で服を借り、津波でずぶ濡れだった服を取り替えていた。
子どもたちはトロトロと眠った。両親は眠れなかった。長女はどうなった。産まれたばかりの初孫は? じいちゃん、ばあちゃんは無事か?
翌朝5時に、4人で中学を出た。とにかく4人を探しに行く。何度も滑りながら凍り付いた道を歩き続けた。が、またしても水が邪魔をした。道が冠水して先に進めない。自宅にたどり着けない。
その日、祖父の遺体が見つかった。寺に収容されているという。亡骸に会いに行った。
茨城県鹿嶋市に住む親戚が、心配して探しに来てくれた。とりあえず3日間、鹿嶋市で世話になった。
妻の勤め先の病院から連絡があった。140人の患者を待避させねばならない。人手が足りない。来てくれないか。家族を含めて病院で寝泊まりしていい。
父は、高熱を発していた。被災後の無理が出たらしい。病院に行けば治療ができる。4人で南相馬の病院に移った。2日間、点滴治療を受けた。5日かけて140人の患者全員を待避させた。
終わって、1台だけ生き残っていた母の車に乗り、桐生市の親戚宅に向かった。病院は福島第一原子力発電所から20km圏内である。子どもたちに放射線を浴びて欲しくない。
30日、連絡が入った。長女が遺体で見つかった。隣の家の畑で仰向けになって横たわっていたという。そこも福島第一原子力発電所から20km圏内である。立ち入りが制限されていたが、長女の旦那がこっそり入り、見つけた。遺体はかなり傷んでいた。
「旦那とお揃いのブレスレットをしていて、結婚指輪もあった。それに、髪留めもそうだから、間違いないって。で、行ったんです。一目ではこれが自分の娘かどうか見分け着かなかったけど、何となく感じるんだわ。それに、娘は歯並びが悪くてさ。それを見て確信したんだ」
祖母と、初孫はまだ見つかっていない。
長男は地元の工業高校への進学が決まっていた。が、その高校も福島第一原子力発電所から20km圏内。自宅もそうだし、第一、自宅は増築した部分の床板ぐらいしか残っていない。戻るに戻れない。高校をどうする? 心配していたら、桐生工業が入学を認めてくれた。入学式は8日である。
そこまで聞いて、思わず長男にいった。
「ねえ、君。何か必要なものある? できることならするけど」
私の頭には、我が家にある英和辞書、使い古しのギター、などがあった。欲しいというならプレゼントしよう。
思っても見なかった反応が来た。
「パソコンがあったらな、って」
彼のパソコンは津波に持って行かれた。なるほど、パソコンね。そんな世代なんだ。でも、それは手持ちにない。だが、何とかしてやりたい。
「考えてみる。あまり期待しないで待ってて」
家に戻り、桐生市の有力者O氏に連絡を取った。O氏は近く、有力者の地位を降りるのだが、まあ、それはこの際どうでもいい。
「どっかに、不必要になったパソコンないかなあ。いま住んでるところは狭いので、できればノート型がいいんだけど」
今朝になって連絡が来た。
「何とかなりそうよ」
「おーい、パソコンが何とかなるよ」
昼前、彼らの家を訪ねた。
「えっ、ホントですか」
とはいうものの、予想していたほど嬉しさが溢れた表情ではない。東北人は感情表現が不得手か? まあ、それもどうでもいい。
お姉ちゃんと2人、私の車に乗せ、パソコンをもらいに行った。車を運転しながら、私の心は弾んでいた。世の中って、人間って、まんざら捨てたものではない。いつもは、
「なんでこんなやつが生きてるの?」
といいたくなるやつがウヨウヨいるのに、一朝事あると、いいやつがゾロゾロと出てくる。人の美しさが表に出てくる。そのリンクの1つのパーツになるのは心楽しいものである。
パソコンを受け取り、でも、このまま帰すのも、と思って食事に誘った。
「桐生はね、鰻が美味いんだよ。食って行こう」
老舗、泉新に案内した。お姉ちゃんも
「これ、美味しい!」
と、残さず食べた。
「私、太っちゃうかなあ」
食事後、PANADERIAに案内した。桐生で一番美味しいと評判のパン屋さんである。
「お父さんとお母さんにお土産だ。好きなだけ買っていいよ」
その足でマリーポールに向かった。
「お姉ちゃん、これ、誰にあげても喜ばれるケーキなんだよ。みんなで食べて」
辛い目にあった人たちである。辛い目にあったが故に出会える、ほんのちょっぴりの楽しさを経験しても悪いことはない。
という。
普通は、リンクを張った先のように解釈されるが、パソコンを探し、鰻をご馳走し、パンとケーキを買いながら、
「違うんじゃない?」
と思えてきた。
巡り巡って自分のためになるようなものは情けではない。困っている人のために何かができる、何かをする。それが自分の歓びとなり、充実感となる。それが一番楽しいのではないか?
彼らとは、もう2度と会わないかも知れない。それでも、今日の私は何となく爽やかなのである。