2012
06.17

2012年6月17日 朋有り

らかす日誌

昨日、東京から友が来た。転勤が決まり、今月いっぱいで、家族のいる金沢に戻るという。

「その前に、大道さんに会っておきたいのですが、東京に出てくることはありませんか?」

いまの仕事では、東京に行く機会は極めて少ない、もしよければ桐生に来ないか、妻女殿の体調故にお泊めすることはできないが、駅までの送り迎え、夜の会食、飲み会など、できることは何でもすると伝えたところ、昨日昼過ぎに足利市駅に着いた。

朋有り遠方より来たる  亦、楽しからずや

である。
その足で足利学校を見学、あとは我が家に戻り、夕方から街に出てしこたま食って飲んで、ホテルに送った。

今朝はホテルまで迎えに行き、我が家で朝食。そのあと、足利市駅まで送った。
金沢でいい仕事をされんことを。

 

と、こちらは桐生で楽しんでいるのに、東京では、アホドジョウがとんでもないことをやってくれた。税と社会保障の一体改革で、民主・自民・公明の3党が合意したんだって。こいつら、自分で何をやっているのか理解しているのかね、まったく。

おい、ドジョウ。
泥の中に潜っている生きものらしく、お前さんは見通しがきかないな。いいか、耳の穴をかっぽじって、俺のいうことをよーく聞くんだぜ。ん? ドジョウに耳はあったか?

まず。
あんたは、日本の民主主義の歴史にとんでもない変更を加えようとしていることを自覚しているか?

世界どこでも同じだと思うが、民主主義とは政党政治のことである。ある幅の中に収まる考え方を持った政治家が徒党を組み、政党なるものを立ち上げる。立ち上げると、その徒党の最大公約数的な政治目標を決め、それを「公約」(最近はマニフェストと呼ぶらしい。なんで横文字にしなければならないのか)としてまとめ、それを掲げて有権者に支持を訴え手選挙に臨む。こうして投票が行われ、基本的には、最大の議席を確保した政党が内閣を組織して国を率いる。
これが、民主主義、政党政治の基本である。大事なことは、有権者はそれぞれの政党が掲げる「公約」を最大の判断基準として1票と投じるしかないということだ。

なのに、あんたがやっていることは何だ?

まず、あんたの属する政党が掲げたマニフェスト(繰り返す。なぜ横文字でなければならないのだ?!)を、あんたは真っ昼間、公然と裏切った。民主党のマニフェストを評価して民主党を支持した有権者は、こんな手ひどい裏切りにあって、どうすればいい? 民主党の本質を見抜けなかった己の愚を嘆けってか?!

そもそも、自分の党の意見をまとめ上げることができず、選挙で戦った政敵と手を組んで消費税率引き上げを押し切ろうとするなんて、政党政治、ひいては民主主義を、有権者の意志を否定するものである。
主義主張の違う政党がいろいろある。おおむねの政治家がそのどこかに属してはいる。だが、問題によっては政党の枠を無視し、勝手に離合集散して多数派を形成、政策を決める。だったら、政党って、公約って、何のためにある?
ドジョウよ、お前がやろうとしているのはそういうことだ。

無論、社会情勢は時々刻々と変わる。だから、選挙の時に約束したことを放棄しなければならないこともあろう。それは理解できる。
だが、政治がそのように動くことと認めるためには、有権者と政治家がもっと近い関係を築く必要がある。

 「人間的に、あんたを信頼する。あらゆる問題について、我々はあんたの判断に従う」

といいうる、ごく密接な人間関係があれば、そういう政治システムもありだ。
しかし、例えば私が住む桐生市が属する、衆議院群馬2区の選挙区は、30万人を超える有権者がいる。当選するためには、前回選挙を例に取れば、12万人ほどの有権者に自分の名前を書いてもらわねばならない。そうした過程を経て民主党の石関という政治家が衆院議員になったのだが、石関は12万人の有権者と、個人的に密接な関係を築いたから当選したのか? そんなことができようはずがない。
石関に極めて近いところで生きていて、石関の長所も短所もわきまえ、しかしながら、やはり石関が国会議員になった方がいい、彼は判断を間違わない、と支持する人も、少数はいるはずである。だが、大多数は民主党の石関として彼を見、自民党より民主党の方が良さそうだ、自民党の笹川より、民主党の石関の方が我々の願いを叶えてくれそうだ、という、極めて曖昧な理由で石関に票を投じた。
ドジョウよ、お前がやろうとしているのは、こうした政党の役割を、根底から否定するものだ。政党が政党として役に立たなくなったら、有権者は何を根拠に1票と投じたらいいのか。ドジョウ、お前には代替案があるのか?

さらに言葉を重ねよう。
ドジョウよ、お前は、自民党がお前に期待している道化の役を見事に演じきろうとしている。
自民党は消費税率の引き上げを党是として掲げている。だから、彼らが政権政党になれば、それを実現する責任を負う。
ところが増税は、はなはだ国民に嫌われる。だから、実現しなければならないことは分かりつつも、できれば、自分が責任ある立場にある間は、できれば先送りしたい課題でもある。
それを、増税しないと国民に約束して政権の座についた民主党の党首であるドジョウが、

「私の政治生命をかける」

と大口をたたき、しゃにむに増税法案の成立に向かって動く。
自民党にとっては願ったり叶ったり、である。何をトチ狂ったか、自民党の消費税率引き上げに反対の論陣を張り、消費税率は引き上げないと国民に約束して首相になったドジョウが、この評判の悪い増税をやってくれる。これが実現して、国民の支持を失うのは自民党ではない。政敵である民主党である。
自民党にとって、こんなに素敵なことはない。

かけひきをするようなポーズをとり、一歩一歩、ドジョウをいけすの中に追い込む。もう、あと一歩である。ほれ、入ったぞ! 自民党の連中はきっと、ドジョウ鍋としゃれ込んでうまい酒を飲むのであろう。

ちなみに、私はドジョウの

「政治生命」

など、ご本人は最大の表現のつもりのようだが、我々にとっては吹けば飛ぶようなチリに等しいといっておきたい。ドジョウが退陣に追い込まれようと、政界引退をやむなくされようと、次の選挙で落選しようと、そんなものを気に病む国民など、ごく一握りしかいない。ドジョウは、自らの立場に自覚がない。

本人は重いと思っている、実はこの上なく軽い表現しか駆使できないところに、ドジョウ並みの頭脳しかないことがはっきりと現れている。

馬鹿は死ぬまで治らないというが、このドジョウ、死んでも治るどころか、負の遺産を残すだけである。国民は、ドジョウが首相の座に座った不幸を嘆くしかないのである。