01.04
2016年1月4日 己を知る
とりあえず年が明けた。
まずもって、皆様、あけました。
という、何とも締まらない挨拶は、めでたいかどうかはそれぞれの人で違うだろうからである。めでたい人もあれば、めでたくない人もある。めでたいかどうか判断を保留する人もあろうし、そんなことを気にかけているゆとりがない人もいるに違いない。
あなたは、いかがでした?
さて、という私の新年である。
お知らせしていたとおり、2日から今日4日まで、苗場で遊んできた。川崎に住む長男(訳あって、連れ合いは参加できなかった)、四日市に住む長女一家——そう啓樹、嵩悟の家族——、それに横浜に住む次女一家——こちらは瑛汰、璃子の家族であることはいうまでもない——の総勢11人が苗場の雪を楽しんできた。
桐生を出たのは2日の午前7時過ぎ。まず高崎まで車で走り、JR高崎駅で、高崎にある旦那の実家に泊まっていた長女一家と合流、そのまま新幹線で越後湯沢まで出て。バスで苗場プリンスホテルに到着した。長男、それに次女一家はすでに1時間以上前にホテルに着いていて、めでたく全員が合流した。
目の前はゲレンデである。ホテルにチェックインするかどうかよりも、とにかく血が騒ぐ。かれこれ20年ぶりのゲレンデなのである。
すでに瑛汰たちはレンタルスキーをゲットしていた。遅れて着いた私たちも、レンタルスキーを借りる列に並んだ。
「啓樹、ボスがスキーを教えてやるからな」
なぜか正月の苗場プリンスは銀座並みの混み方で、列を作って待つこと、かれこれ1時間。やっとスキー道具を手にしたときはお昼を回っていた。
となれば、腹が減っては戦はできぬ。
「昼飯を食うぞ」
先に昼食の席に着いていた瑛汰は、カツカレーを頬張っていた。私と啓樹は、普通のカレーである。
「ん?」
これが1100円もするカレーか?
と訝っていたら、瑛汰が的確な表現をした。
「苗場プリンスホテルのカツカレーは不味いって、新聞に書いてもらわなくっちゃ。あれ、ひどいよ」
まあ、我が家族がほぼ全員集合したのはめでたい新年である。が、集合して初めて食べた昼食が、新聞で批判してもらわなくてはならないほど不味いとしたら、はたしてめでたい新年か?
ま、それでも目の前はゲレンデだ。そんな小さなことを気にしていたら人生を楽しむことはできぬ。スキーをしに来たのだ。浮遊感を、身体が風を切り裂く感触を、音を楽しみに来たのだ。
滑らなくっちゃ!
始めてスキーを履く啓樹と瑛汰はスキー教室に入れた。その間、私、長男、啓樹のパパ、瑛汰のパパはそれぞれに楽しむしかない。私はひとり、中級コースのリフトに乗った。
「中級コースって、こんなになだらかだっけ?」
ゆとりを持ってのリフトの旅であった。
降りて、ゲレンデに立つ。これから滑り降りるスロープを眺める。ほんと、久しぶりの眺めだ。心が躍る。
「まず、あちらの方に滑って、あのあたりで方向転換して、そう、あそこのコブはこうやって避けて……」
間もなく始まる我が勇姿が目に浮かぶ。耳元で鳴る風の音が聞こえる気がする。
「行くぞ!」
私は雄々しく、スキーの先端をスロープに向け、蹴り出した。
この感触をどう表現したら良かろう?
「あれっ?」
おかしい。何かがおかしい。スキーの乗り心地って、こんなものだっけ? おい、どうして重心が後ろにかかる? それじゃあ転けるだろ? 重心は前、前にかけて左にターンするときは右足に重心を移して……。
ズルズルズル……。
気がついたとき、私の身体はスロープを滑り落ちていた。いや、板に乗ったまま滑り落ちているのなら当たり前なのだが、板も私の身体も、どちらもスロープにくっついたまま滑り落ちていたのである。
何のことはない。私、滑り出したかと思う間もなく、見事に転倒していたのだ。
新雪の供給がなかったスロープは、ほとんどアイスバーン状態である。私の身体は氷の上を止めどなく滑り落ちた。
「?……」
やっと止まって立ち上がっても、いったい何が起きたのか、理解が届かなかった。
いや、私が転けたことは事実である。これは理解するしないの問題ではない。スロープがほぼアイスバーンであったことも事実である。議論の余地はない。
理解ができなかったのは、なぜ私が転けなければならなかったのか、である。
だって、この程度のスロープなら、俺、優雅にシュプールを描くはずだったではないか? その程度の技量は身につけていたはずではなかったか? なのに、なぜ転ける?
疑問を疑問として抱えたまま、私は立ち上がった。いや、立ち上がったのは事実だが、立ち上がるのに苦労したのも事実である。
「おいおい、なぜ立ち上がれない?」
どうやら、このあたりで私のリズムは完全に狂ってしまった。
立ち上がって再びゲレンデに挑む。不思議なことに、また転ける。再び苦労をして立ち上がって滑り出すのだが、転けるまでにたいした時間はかからない。
もういちど立ち上がったとき、私の自信は粉々に砕け散っていた。
たいした傾斜もないゲレンデが怖くて仕方がない。かつては下を見下ろしながら
「あのあたりまで真っ直ぐ滑って左ターン、すぐに右ターンして……」
と滑るコースを見極めていたというのに、
「おい、俺、何処に行ける?」
まったくスキー板に乗る自信をなくしてしまったのだ。滑るコースも、止まる地点もまったく見えない。頭にあるのは
「どうやって下まで降りようか?」
だけとなった。
とりあえず横滑りで少しづつ降りる。
「あそこまで降りれば傾斜が緩やかになる。あそこからは滑れるだろう」
と思いつつその地点まで行って下を見下ろすと
「結構急だぜ、この斜面」
こうなったら、もういけない。私、スキーで滑る感覚を全くなくしてしまったらしいのだ。
汗だらけになって荒い息をつきながら降りた。
「いや、実は」
と長男たちに話した。長男とは何度も一緒にスキーをした。だから、かつての私が、上手くはなくても、それなりにスキーを楽しむ技量を持っていたことは知っている。
「えーっ、何処滑ったの? 中級? ああ、あれ、結構辛いコースだよね。だめだよ、最初は初級コースを滑って勘を取り戻さなくちゃ」
いや、だって、頭では忘れても、身体は忘れないっていうじゃないか。それなのに、今日の私の身体は、まったく忘れちまってるようなんだよな。
「あのね、60になったら身体も忘れるの。だから、まず初級コースを滑って、少しづつ身体に記憶を呼び戻してもらわなくちゃならないのに、いきなり中級では思い出す暇もないだろ?!」
はあ、さようなものであるか。
が、一度怖じ気づくと、もういけない。
いや、気持ちの問題だけでなく、身体が悲鳴をあげていた。なにしろ、滑っていて両足が揃わないのだ。ここで左脚に体重をかけたいのに、左脚が遠くに流れている。それを引き寄せようとするから、足の付け根に余分な力がかかり、パンパンに張っている。それに、下半身がスムーズに動かないと、腰にも負担が来る。良くない腰に
ビリッ
と電気信号が何度走ったことか。
「俺、もういいわ。今回は滑らない。明日までスキーセットをレンタルしていたけど、明日の分はキャンセルする。明日は読書するわ」
というスキー旅行であった。
これでめでたいといえるか?
が、子供たちは大いに楽しんでいた。
初日、スキースクールに入った啓樹と瑛汰は翌3日、パパとおじさん(つまり、私の長男)に突然一番高い所まで連れて行かれた。頂上付近は結構な急坂である。
「40,50分で降りるから」
という長男の言葉に反して、4人が降りてきたのは2時間後。私は目にしなかったが、降りてきた瑛汰は泣き出したのだそうだ。緊張感が一瞬にして緩んだか。
「お前なあ、昨日始めてスキーを始めたヤツを一番上に連れて行くとは無茶じゃないか!」
と罵声を浴びせた私に、長男は悠然と答えた。
「過保護はいけないんだって。とにかく挑戦させなくちゃ」
おい、お前の親爺は確か俺のはずだが、俺、そんな厳しい親爺だったか?
が、降りてきた2人はめげた様子もなく、午後にもまた、パパとおじさんに伴われてゲレンデに挑んでいた。うん、挑戦の春。
これはめでたい。
璃子と嵩悟はスキーこそ履かなかったが、それなりに白銀の世界を楽しんだ。ソリで滑り、自転車型のソリにまたがってスロープを征服し、ついにはおじさん、パパに抱かれてスキーコースを滑った。
これもめでたい。
我が妻女殿はいう。普段は父と子が触れあう機会が少ない中、スキー場で父が子にスキーを教えたのは、親子の触れあいを増したのではないか。
なるほど、ボスにスキーを教えてもらうより、パパに教えてもらった方が何倍かいいに決まっている。ということはあれか? 私がスキー恐怖症に陥ったのも、悪いことばかりではなかったか?
これは、中くらいのめでたさである。
と、さまざまなめでたさと腹立ちを交えながら、私の2016年は始まった。
いま思う。
「俺、もう一回スキー教室に入ろうかな?」
といいながら、後遺症の筋肉痛を恐れる私である。