2018
02.26

2018年2月26日 形容詞

らかす日誌

天人 深代惇郎と新聞の時代」(後藤正治著、講談社文庫)

という本を読み進めている。

深代惇郎とは、かつての朝日新聞の1面コラム「天声人語」の筆者である。コラムニストとしては空前絶後の素晴らしい文章を書き続けた方として、私は記憶にとどめている。1975年、急性骨髄性白血病のため46歳の若さで亡くなった。死後、『深代惇郎の天声人語』、『続 深代惇郎の天声人語』、『深代惇郎 エッセイ集』、『深代惇郎の青春日記』が出版され、私の本棚にはすべて揃っている。

というほど敬愛する文章家である。その伝記ともいうべき本が出たとあっては読まないわけにはいかない。

ま、深代さんがどのような方であったかにご関心をお持ちの方はこの本を買い求めていただくとして、

「ふむ」

と思ったことがいくつかあった。いま該当ページが見つからないので記憶に頼って書き記すと、深代さんはかつてこんなことをおっしゃったというのである。

「形容詞は嘘をつくが動詞は嘘をつかない」

なるほど、と感じ入った。
事実を事実として伝えるのが文章の目的なら、これは至言である。
形容詞とは飾り立てる言葉である。様々な主観、価値観が形容詞に入り込む。時として形容しすぎ、不適切な形容、そして意図的な形容も起きる。
しかし、動詞はそうはいかない。行った、のは行ったのであり、行った、と書いて来たことを現すわけにはいかない。食べないものを食べたとはかけない。事実を事実として表現せざるを得ないのが動詞である。

一人の人を表現するのに形容詞に寄りかかっては、意図のいかんに関わらず実態から離れてしまう恐れがある。しかし、形容詞を廃して動詞だけで人を表現すれば、事実以外のことは書きようがない。嘘は書きたくてもかけないのである。

そう考えれば、人とは詰まるところ、一生を通してやってきたことの集大成でしかない。この人は素晴らしい人であると千万言を費やすより、その人の事績をたんたんと書き記す方が実像に迫る早道である。

とすれば、私の実像は、私が何を考え、何を思い、何を書き、何をしゃべったかではない。私が何をし、家族やあなたを含む周りの人々とどのような関係を築いたか、でしかない。動詞は嘘をつかないということはそういうことではないか。

単なる文章論のように見えて、深い人生哲学を含むひとことをポロリと漏らす。深代さんとはそのような人であったらしい。
 

実は週末、横浜に行っていた。瑛汰の算数の指導役である。時間が空いたおりにこの本を読んでいてこんな文章にぶつかった。

「私は受験をひかえている花の中学三年生です」という少女からお手紙をもらった。トマトの絵入りの可愛い便せんに「天声人語と社説を、どうか夏休みの間お休みにしてくださいませんか」と、誤字のない筆で書いてあった▼この「花の中学三年生」は夏休みの宿題に、毎日、「天声人語」と「社説」の要約、感想、字句解釈をやらねばならない。ところが、いくら読んでも何が書いてあるのか分からない日がある。一日に二時間以上もかかるときがある。「どうかお休みにしてください」という切々たる訴えが、コラム子を悩ませる▼夏休みの最後を思う存分、海や山で遊びたいのだろう。それを毎日、辞書と首っ引きでこのコラムと向かい合っている姿を想像すると、何だか申し訳ない気持ちにもなる。と同時に、彼女が「分からない」のはなぜだろうと考える。分からない言葉に出会ったら、辞書を引けばよいはずなのに▼おそらく彼女が二時間も取り組んで分からないときがあるのは、漢字や熟語の難しさのためばかりではあるまい。文中で論理が飛躍したところ、発想が転換したところ、問題が急に抽象化されたところでつまずくのではあるまいか。こちらの表現や問題の整理の仕方に上手、下手があるのかも知れぬが、読む方の知識や読解力の問題もあるにちがいない▼たとえばパレスチナ・ゲリラにしても、インフレにしても、言葉をやさしく、やさしくして、「眉」を「目の上に生えた毛」というたぐいに言いかえても、分からないことに変わりはない▼それに日本語は複雑で、微妙で、難解なところがある。劇作家宇野信夫氏が「親になる」と「親となる」という言葉の違いを書いた文を、読んだことがある。子を産めば「「親になる」から犬でもネコでも出来ることだが、親といわれるような「親となる」のは難しい。「に」と「と」で意味ががらりと違ってくる▼こうしたことは、多分、辞書を引いても見つかるまい。文意を正確に読むことも難しいが、文を味わうこともまた難しい。(1974年8月24日)

深代さんが「天声人語」に書いた文章である。私はこの文章を瑛汰に読ませた。国語の読解に取り組まねばならない瑛汰に、日本語の難しさを知ってもらいたかったからである。

瑛汰がこの文章から何を受け取ったかは分からない。

「そうだよ。宿題なんかがあるから毎日遊べなくて面白くないんだよ」

と、子どもらしい感想を持っただけかも知れない。

深代さんと同列に論じるのはとんでもないことだが、私も「らかす」を通じて文章をお読みいただいている。私は己を戒めるため、この文章をここに書き写したくなったのであった。