11.18
2016年11月18日 ルール
15日から昨日まで九州に戻ってきた。94歳になって衰えたおふくろの顔を
「これが最後かも知れない」
と思いながら見に行ったのである。
15日、16日と病院に足を運んだ。両日ともおふくろは目覚めていた。
初日、弟が
「分かるかね、あんたの長男が会いに来たとばい」
と大声呼びかけた。でまあ、そんなことではないかと予想はしていたが、おふくろにはもう認知能力が消え失せかけているようで、ボーッとした目で私をしげしげと眺め、か細い声で
「分かっとる。○○たい」
といった。○○は私の名ではなかった。おふくろの弟の名だった。
ふーっ、そうか。私はおふくろの記憶から消え去っているらしい。長男でありながら、故郷を長く離れ、余り顔を見せる機会もなかったからなあ。
まあ、1、2年前には、ここで名前を挙げた弟と隣り合った席に座り、2人して敬語を使いながら他人行儀に話していたというから、衰えるものが衰えるところまで来たということだろう。
ちなみに、このおふくろの弟、つまり私からすればおじさんもほぼ同じ状態で入院中である。いや、おじさんの方がさらに症状は進んでおり、口もきけない。
悲惨、という言葉がすぐに浮かぶ。たしかに、認知能力、表現能力を失った人間は、そばで見るとそういう思いを引き起こす。
だが、本当に悲惨なのか?
人は必ず老いる。老いれば様々な人間能力が衰える。脳の働きも徐々に失われる能力の1つである。そうして、やがて誰しも避けられない死を迎える。
さて、間近に死が迫った際、脳の働きが健康であったらどうだろう? ほかの能力が衰えていくことが明瞭に認知できる。迫ってくる死の影すら、はっきり分かる。
それって、大変に辛いことではないか?
全身から生命力が失われつつある時、失われつつあることを明瞭には自覚できないように脳も衰えるのは、ひょっとしたら救いではないか?
最近、そのように思うようになった。できることなら、そのように惚けるのが、死ぬ前の1週間程度であれば理想的だと思うのだが、いかがだろう?
2日目も、おふくろの状態は同じであった。
その日、病院長が時間を取って現状を説明してくれた。一言で言えば全身衰弱が進んでいる。脳からは記憶を保持する機能がほとんど失われ、心臓も不正確な動きしかできない。ために心臓に流れない血液がたまって血栓ができ、それが脳に運ばれて脳梗塞が起きた。ものを飲み込む力もかなり失われ、時折口に入れたものが肺に入って炎症を起こす。まだ生命力が完全に失われる段階ではないが、いつ何が起きても不思議ではない。
丁寧な説明に、
「よろしく御願いします」
というほかなかった。
というわけで、大牟田市の生家で2日を過ごし、昨日戻った。大牟田の家を出たのが午前10時前、桐生の家にたどり着いたのが午後8時前。ドア・トゥ・ドアで10時間。国内とはいえ、時間距離は限りなく遠いのである。
帰りの福岡空港でその騒ぎは起きた。荷物検査でひっかかったのである。指摘されたのは、パイプタバコを楽しむのに欠かせないパイプコンパニオンである。パイプにタバコを詰めるにの必要な道具だ。あわせて、パイプの火皿にこびりつく炭化物を削り取るため、ナイフのようなものもついている。これがひっかかった。
「羽田からこちらに来る時は何も言われなかったんだけどね」
とりあえず抗議してみた。
「検査機器はそれぞれ感度がありますので、こちらの方が感度がよかったのかも知れません」
なるほど、それには一理ある。だが、羽田での検査は通ったのだ。空港ごとに検査機の感度が違うのでは、我々ツーリストは戸惑うばかりだ。
「だけどねえ、これで何かができる? あなた、これを突きつけられて恐怖を感じる? パイプコンパニオンで飛行機のハイジャックができると思う?」
このあたりは私が出したジャブである。
「それでも規則ですので」
なるほど、そうくるか。そう思った私が出した次の手は、後で振り返ると、最悪の手であった。
「だったら、これもいけないのかい?」
ポケットから取り出したのは、パイプコンパニオンが付いたライターである。先ほどゲートをくぐった時にはアラームは鳴らなかった。だから、そのまま何も言わなければ、飛行機に持ち込むことができたのだが、検査員の次の一言でそれが不可能になった。
「あーっ、これは……、はい、これもできません」
直前の検査にはひっかからなかったコンパニオン付きライターである。それを、私が正直に申告したら
「持ち込み不可」
という。正直者は馬鹿を見る、の典型である。
で、その正直者は戦闘意欲を失った。
「じゃあ、この2つ、羽田で受け取れるようにしてよ」
機内に持ち込めないものは、航空会社が乗客から一旦預かり、同じ飛行機に乗せて目的地の空港で引き渡す。それが面倒だから何とか機内に持ち込みたいのだが、岩のように固まってしまった検査員はテコでも動きそうにないから、そうせざるを得ないと考えたのだ。
そこから騒ぎが始まった。
「これ、ライターですね。ライターは発火物で危険なので、お預かりできません」
つまり、同じ飛行機では運べないというのである。ここで、私は切れた。
「じゃあ、どうするんだ? 一度は検査を通ったはずなのに、正直にいったら持ち込みはダメ、預けることもできない。私はどうしたらいい?」
「といわれましても、規則は規則ですので」
「といわれたって、このライターは私に必要な物なんだよ。あなたのいうとおりにしたら、このライターはどうなるの?」
「この近くに預かってくれる方はいませんか?」
「いるわけないだろう!」
「では……」
「では、どうする? よし、いまからガスを抜く。抜けば火は付かない。だからライターの機能はなくなる。危険性もなくなる。そうしたら運んでもらえるんじゃないか?」
「いえ、これはライターですのでお預かりできません」
「じゃあ、これ、買い取ってくれる? 向こうに着いたら同じものを買うからさ。2000円なんだけど」
「それはできません」
「じゃあ、どうしたらいいのさ。そもそも、これ、羽田からこちらに来る時は何の問題もなかったから、いま私のポケットにあるんだ。どうやったら出発地まで持って帰れるの?」
「そういわれましても」
何とも先に進めない会話が延々と続いた。
そして私は、私が乗る便の航空会社のカウンターに連れて行かれ、同じ会話をさせられる。結論は同じである。
「そういわれましても」
何とも先の見えない会話は、クロネコヤマトの宅急便で2000円のライターを桐生まで送ることで決着した。料金は1080円。
最悪の手を打つと、1080円の損失が生じる。口は災いの元、を体験した私であった。
しかし、だ。
これ、何のためのルールなのだろう? パイプコンパニオンに付属する刃渡り3㎝、先が丸くなっており、刃は指に押しつけても傷も付かないナイフが、なぜ危険なのか? パイプコンパニオンは、パイプ愛好者が乱暴に扱っても怪我をしないように作られていると考えるのが常識ではないか?
多分、ルールを決めた官僚の責任逃れである。ナイフ状ののものはすべて危険物に含める。そうしないと、何かが起きた時、
「規則作りが杜撰だ!」
とやられてしまう。だから、ツーリストの利便性より、自分に迫るかも知れないクレームを避けることを優先させる。
かくして、日本に不可思議なルールが蔓延する。
加えて、現場での検査員が、ルールを守ることに汲々としている。これも、自分の身を守るためであろう。何があっても
「私はルール通りに対応しました」
ということができれば責任は問われないのだ。客からクレームが出ても知ったことか! ということなのである。
てなことを、私に付き従った検査員に話していたら、横にいた乗客が
「うるさいわね!」
といってきた。目をやると、単なるばばあである。ま、それはどうでもいいが、思わず私も言い返した。
「うるさい? だったら、耳を塞いでろ!」
ま、はしたなかったかも知れない。が、ムッとしたのである。その自分の感情に正直になったら怒鳴りつけていただけのことだ。悪かったとは思わないし、反省もしない。
人間、誰しも、時には感情を爆発させるでしょ? 私が爆発させたのは、さて、いつ以来だろう?
まあ、かような事故に遭いながら、私は昨夜帰宅した。
そうそう、1080円も取られたライターは明日届くはずである。