2020
11.17

インフルエンザの予防接種をしてきた。

らかす日誌

昨日は午前7時に横浜を出て桐生に向かった。渋滞に次ぐ渋滞で桐生に着いたのは何と午前11s時過ぎ! 実に4時間もかかったわけだ。
首都高に汐入から乗ったら途端に渋滞が始まって羽田まで続き、湾岸線に乗り換えてトンネルに入った出口で再び渋滞。やっと地上に出たと思ったら、東北道の料金所前で三度目の渋滞。最後の渋滞はトラックがベンツに追突した事故処理のためだった。

しかし、横浜から桐生まで4時間かかったのは新記録である。空前絶後であってほしい新記録ではあるが。
4時間も車を運転していると、さすがに疲れる。桐生に戻ってしばらくボーッとし、昼食を済ませて桐生えびす講へ。そう、例年は11月19、20日と決まっているえびす講だが、今年は参拝客の分散を狙って、14日から20日前のロングランとなった。世話人でもないのに何となく毎回うろちょろしている私は16日からの参加である。平日のえびす講だから閑散としているだろうと思いつつ行ってみたのだが、何の何の。2日間に凝縮される例年に比べればパラパラだが、参拝客はほとんど途切れない。歩くのも難儀そうなお年寄りが61段の石段をエッチラオッチラ登ってくるかと思えば、20代、30代のカップルがやって来る。

「今日は平日だぜ。なんでこんな時間に来れるんだよ?」

とは舞台裏のひそひそ話である。

そして今日は、朝一でインフルエンザの予防接種を済ませ、カメラを持ってえびす講に行った。記録写真を撮るためである。
参拝客は今日もほとんど途切れなかった。不思議である。

今年のえびす講には露店が出ていない。例年なら桐生西宮神社下を走る山手通り、本町通から神社に通じる参道には押しくらまんじゅうをするかのように露店がひしめき合う。いか焼きの香ばしい臭い、鯛焼きの甘い香り、天津甘栗の甘ったるい焦げ臭さ、一杯飲みたくなってしまう鮎の塩焼きの誘い……。だから沢山の善男善女が集って賑わうのだが、今年は露店の影も形もない。山手通りにはいつも通りに車が走り、参道にはほとんど人の気配がない。

それでも、参拝客が途絶えない。彼らはえびす神を心から信じているのか? 参拝すれば商売が繁盛し、家内の安全が保たれるのと思っているのか?
多分、違う。そうだったらいいなあ、とは心の内にある密かな願いかも知れないが、近代合理主義に出会ってしまった頭脳は、

「そんなことはあるはずがない」

とわきまえているはずである。では何故、歩くのも難しそうなお年寄りまでが61段の石段をものともせず、参拝に訪れるのだろう?

恐らく、桐生で長年暮らしたことで、11月の桐生えびす講が暮らしのリズムの1つに組み込まれているのだ。12月31日と1月1日は、冷静に考えれば何の違いもない365分の1日であるのに、12月31日は何となくせわしなく、

「押し詰まったな」

と感じる。
1日開けて1月1日になると、やはり365分の1日に過ぎないのに、何となく

「おめでたい」

と感じてしまう。
恐らく、11月のえびす講も、桐生の人々にとっては12月31日、1月1日という、何となく特別の日と同じで、1年365日を彩るリズムの1つなのだ。えびす講になると、何となく

「あ、西宮神社に行かなくちゃ」

と体が自然に動き出すのである。

今日、せっかくカメラを持参したのに、ほとんど写真が撮れなかった。そりゃあそうである。露店がない。雑踏がない。催しもない。レンズを向ける先が、ほとんど拝殿前しかないのである。数回シャッターを押せば、あとは人がまばらに散らばる境内があるだけ。写真の撮りようがない。

そんな暇に任せてボーッとしていて思いついたのが、えびす講は宗教行事ではなく、桐生の人々に刻み込まれた生活のリズムである、という私説だった。

「とすれば」

と動き出した私の頭はさらに先を考えた。

1年のとある数日が生活のリズムを刻むものになるには、毎年の繰り返しとストーリーが必要である。
1年を365日で刻むのは地球が太陽を回る公転周期と自転周期が産み出した自然現象に過ぎず、12月31日も1月1日も、その365分の1の時間に過ぎない。私たちの祖先はそこに、始まりの日と終わりの日という数え方を付け足し、12月31日にはすべてが

「ご破算で願いましては」

と過去365日を精算する日、1月1日はすべてがゼロから始まって新しい年になる目出度い日、というストーリーを書き加えた。

毎年1月1日も12月31日も必ずやって来る。それでも、1月1日も12月31日も、かつてのような特別の日ではなくなりつつあるように思う。まっさらの服を身につけるのが正月の習わしだったが、さて、いまはそれだけの家庭で実行されているか。大晦日に借金取りから逃げ回る話は落語にしか残っていない。
年末になると、テレビは迎春準備の映像を延々と垂れ流す。当日は紅白歌合戦が定番だ。1日開ければテレビは朝から迎春番組を流し、商店は一斉に休みとなる。世の中こぞって年末年始を演出するのである。それでも、世の中の変化は正月、大晦日の彩りを変えつつある。
ひょっとしたら、遠くない将来に、元日も大晦日も、他の日と全く変わらない普通の365分の1の日になるのかも知れない。

桐生えびす講は、正月や大晦日のような援軍がない。地元紙はえびす講の準備段階から報道するが、テレビや大手紙が取材に来ることは希だ。援軍がない桐生えびす講が長らえるにはどうすればいいのか?

続けるしかない、と思う。とにかく続ける。何があっても続ける。それしか、未来の桐生市民にえびす講を受け継ぐ手立てはないのではないか?

新型コロナウイルスの影響で開催期間が延びたえびす講で、例年の開催日ではない平日に桐生西宮神社に足を運んでくる人たちを見ながら、ボーッとそんなことを考えた私であった。