05.20
私と朝日新聞 記者以前の2 朝日派米少年
大牟田市の朝日新聞販売店は飛永和成さんという社長が取り仕切っていた。市内に数店の支店を持ち、私が務めることになったのはその支店の1つである。
朝刊を配るには午前4時半、夕刊を配達するには午後4時には販売店に行かねばならない(たまに寝過ごして、時計を見たら「えっ、7時!」などと言うこともあったが)。今は毎月のようにある休刊日も、当時は1年に3回。正月とこどもの日、秋分の日だけだった。その上、日曜日にも夕刊があった。つまり、私は朝刊を配り終えて登校し、学校が終われば夕刊の仕事に行く。友人と遊ぶ時間があるのは学校の休み時間、学校が早く終わる水曜日と土曜日の午後、それに日曜日の日中しかなかった。
「子どもなのに、苛酷な仕事だったねえ」
と同情して下さる方も、ひょっとしたらいらっしゃるのかも知れない。しかし、当時の新聞配達はみな子どもだった。それも小中学生ばかりで、高校生は見かけたことがない。大人など全くいなかった。同じぐらいの年頃の男女が、私よりチビ助も含めて持ちきれないほどの新聞の束を抱えて販売店を出て行く。だから、自分が苛酷な仕事をしているのだという自覚はゼロだった。自分の仕事が苛酷だ、惨めだと思えば、暮らし全部が苛酷で惨めにになる。仲間と同じことをしているだけだと受け止めれば、暗くならなくても済む。人の心とは実に不思議なものだ。
そういえば、私が新聞配達を始めて間もない1961年1月、アメリカにわずか43歳のジョン・F・ケネディ大統領が誕生した。若さはやっぱり素晴らしいのだろう。アメリカだけでなく、日本でも何だか新しい時代が始まったうような気になった人が多かったと聞く。
ケネディの父、ジョセフ・P・ケネディは株や不動産で巨万の富を築いた大金持ちである。
「証券市場で悪事に手を染めたから大成功したんだろう。であれば、証券市場で行われる悪事の手口に詳しいはずだ。彼に任せれば犯罪を摘発することが出来る」
という理由で初代の証券取引委員会委員長を任されたという逸話もある人物だが、いまは関係ない。
そのジョセフ・ケネディの次男に産まれたジョン・F・ケネディが子どもの頃、新聞配達をしたという話を、幼い新聞少年であった私にしてくれたのは、さて、誰だったか。
「苦労は人を育てる」
というジョセフの考えからだったというが、当時の新聞少年(少女もいた)に希望をもたらしたことは疑いない。そして、私も胸を膨らませた1人であった。
ただ、ケネディが新聞配達をしたのは何歳ぐらいの時でどれほどの期間だったのか。この原稿をかくためにネットで検索したが、出て来ない。私に夢を持たせたあの話、本当なのかな?
話を元に戻そう。
支店のひとつで働いているのだから、販売店のトップである飛永さんにお目にかかることはあまりなかった。それなのに、である。
「大道君、朝日新聞が全国の新聞少年の中から10人選んでアメリカに連れて行く、ちゆうとるもんね。九州から1人たい。あんたば推薦しといたけん、頑張っちくれんね」
(大道君、朝日新聞が全国の新聞少年から10人選んでアメリカに連れて行くといっている。九州から1人だ。君を推薦しておいたから頑張ってくれ)
突然そんな話をされたのは歴木(くぬぎ)中学3年生の時だった1964年のことだ。もう3年以上も新聞は配っている。そのご褒美? だけど、私以上に長く新聞を配っている子もいるぞ。
それに、だ。九州からたった1人。九州全体でいったい何人の新聞配達がいるんだ? 学校の成績はそこそこだが、もっと立派なヤツがどこかにいるはずだ。私が選ばれるなんてありえないだろ?!
とは思うが、こんな時、
「はい、分かりました。ありがとうございます」
という答しか知らないのが中学3年生である。
話を詳しく聞くと、何でも前年から、朝日新聞は新聞配達をしている子どもをアメリカに連れて行く事業を始めていた。各家庭に新聞という商品を届ける仕事は、新聞事業を支える足である。その足は、ほとんど子どもが担っている。貧しい家庭の子が多かろう。だから、その子どもたちを励ましたい。そんな思いがあったのかも知れない。
あるいはこのころ、日本経済は急速な成長軌道に入っていた。経済が成長するということは貧しい家庭が減るということである。貧しい家庭が減れば、新聞配達をしようという子どもが減るのは自然な流れだ。配達の足を子どもに頼っている新聞社としては、何とか配達の仕事に子どもを惹きつけなければならないという経営課題があったのかも知れない。アメリカ派遣の夢で子どもを配達の仕事に引き込むのである。
朝日新聞の狙いがどこにあったにせよ、事業は始まった。昭和38年(1963年)の1回目は関東圏から5人を選んで連れて行った。2年目、その枠を全国に広げた。私が飛永さんに声をかけられたのはその2回目であった。
福岡市で面接が行われた。飛永さんに連れられた私は学生服に身を包み、家族に
「あんた、いつも声の小さかけん、もちっと太か声で答えんとでけんばい」
(おまえはいつも声が小さい。もう少し大きな声で答えないといけないぞ)
と家族に励まされ、福岡に向かった。
面接で何を聞かれたかは全く記憶いにない。だが、それからしばらくすると、飛永さんから連絡が来た。
「あんたが選ばれたばい。あんたがアメリカに行くとばい!」
(君が選ばれたよ。君がアメリカの行くんだよ!)
嘘! 本当に俺がアメリカに行くのか? 私が舞い上がったのはいうまでもない。
飛永さんは当時、福岡県の旭市分販売店会の会長をしていた。大牟田では商工会議所の副会頭であり、ライオンズ倶楽部でも重きをなしてもいた。
という飛永さんの肩書きを考えると、私を九州代表に押し上げたのは飛永さんが販売店会長として朝日新聞に持つ影響力、としか考えられない。つまり、私は単なる将棋の駒で、駒を動かして勝利に結びつけたのは飛永さんに違いない。
私に功績がもしあるとすれば
「この駒だったら勝負に勝てる」
と飛永さんに思わせたことぐらいか。しかし、飛永さんはどこで私に関するるデータを集めていたのだろう?
出発は8月2日。サンフランシスコ—ロサンゼルス—ハワイ、と巡る10日間の旅である。
それからは忙しかった。飛永さんに連れられて大牟田市長(確か、円仏末吉さんといった)にあいさつし、飛永さんがメンバーであるライオンズ倶楽部で話をさせられた。いよいよ大牟田を発って東京に向かう日は、大牟田駅のホームに、どこかの中学のブラスバンドが整列して演奏し、私を送り出した。田舎の、どこにでもいる中学生だと思っていた私が、突然フットライトを浴びたのである。戸惑った。
石炭から石油へのエネルギー転換が三井三池争議を引き起こしたのが1960年。1963年にはその三井三池炭鉱で炭塵爆発が起きて458人が亡くなった。私が朝日派米少年に選ばれたころ、故郷大牟田には暗雲がたちこめていた。
だからではないか。飛永さんが私の派米を、久々に大牟田で起きた明るい話として力の限り盛り上げたのは。飛永さんはいたずらに自分の力を誇示するような人ではなかったから、今の私はそう考える。
もっとも、当時の私にはそんなことを考える頭はなかった。突然降ってきたアメリカ行きにのぼせ上がっていただけだった。