2024
01.24

私と朝日新聞 3度目の東京経済部の6 十読しても分からない原稿と格闘した話

らかす日誌

栗原さんと赤池さんは私が発掘したコラムニストである。当然私が担当する。毎週締め切りまでに原稿を受け取り、必要があれば直しを入れ、商品になる原稿にして紙面化する。とはいえ、お2人の原稿は私などが及びもつかないほど優れたものであった。私は最初の読者として2人の文章を読めるという栄光を楽しんだ。それは心地よい作業であった。

しかし、前任者から引き継いだコラムニストもいた。弁護士さんもいた。精神科医もいた。とにかく、ウイークエンド経済は経済現象を、経済活動の1つの駒として支えている普通の人の視線から眺めようという紙面なのだ。サラリーマンとして知っておきたい法律の話、苛酷な世の中で精神を健全に保つ方を知っておくことも無駄ではない。

その1人の精神科医から、ある日原稿が郵送されてきた。封を切ると、400字詰め原稿用紙が2枚入っていた。それを広げた瞬間、違和感に捕らわれた。どこかがおかしい。目を通し始めて違和感の正体が分かった。普通、20字×20行の原稿用紙には縦書きするものである。ところがこの精神科医は、何と原稿を横書きしていたのである!

いや、違和感は私の凝り固まった固定観念が原因だったのかも知れない。原稿用紙を縦に使おうが横に使おうが、それは筆者の自由ではないか? 気を取り直して読み始めた。何だか、2枚の原稿用紙が真っ黒に見える。どうして真っ黒に見えるのだろう? とりあえず目を通し終わって原因が分かった。この800字の原稿、段落がたった2つしかないのだ。そのため、ほとんどのマス目が文字で埋まっている。黒く見えるはずである。それだけでなく、800字をたった2つの段落で書かれた原稿は読みにくい。

読みにくいだけではなかった。一度読んだぐらいではいったい何を言いたいのかが全く分からない原稿だった。筆者は何かのテーマを決めて原稿を書いたはずである。それなのに、テーマも分からなければ、論の運び方も理解できない。私が理解できないのだから、このまま新聞に掲載したら、読者の大半が頭を抱えるに違いない。このまま新聞に掲載するわけにはいかない。

このような時、普通は筆者に修正、書き直しをお願いする。だが、お願いするには修正して頂く部分を指摘し、なぜ修正しなければならないのかを説明しなければならない。筆者には筆者の考え方があるはずだから、ここは編集者である私の考えと筆者の考えを照らし合わせなければならないのだ。

だが、この原稿は最初から最後まで意味不明である。部分的な修正ではとても間に合わない。お願いするとしたら全面書き直し、ということになる。
しかし、である。この文章を書いた時、筆者は何らかのテーマを書こうと思ったはずだ。それが、出来上がったら意味不明の文章になったということは、きっとテーマの取り扱いに困惑し、自分の文章力で何とか書いてみたのだが、力及ばずこの結果になったとしか考えられない。その筆者に全面書き直しを頼んでも、わかりやすい文章になって戻って来るか?
きっと戻ってこない。

私は意を決した。届いた文章を商品にするのがデスクの仕事ではないか。だったら、私がこの呪文のような文章を解読し、わかりやすい文章を書くしかないのではないか?
私は解読を始めた。

「ここは、こんなことをいいたいのではないか?」

「この文章と、ずっと先にあるこの文章をつなげれば意味が通るのではないか?」

なにしろ、一読しても十読してもさっぱり意味が読み取れない文章である。「ではないか」の連続になるのは避けられないことなのだ。
何とか解読を終え、原稿を仕上げた。だが、これでいいのか? 筆者はこんなことをいいたかったのか? それを確かめなければ紙面に掲載するわけにはいかない。紙面では精神科医の署名入り原稿になるのだ。

私は書き上げた原稿をFAXで精神科医に送った。そして電話をかけた。

少し分かりにくいところがあったので、やや多めに筆を入れました。私の読み間違いで、先生がいいたかったこととは違ったことになっているところもあるかもしれません。そんなところは遠慮なく指摘して直して下さい」

しばらく待つと電話がかかってきた。

「大道さん、ありがとうございます。私がいいたかったのはこれなんです。わかりやすい文章にしていただいて、本当に感謝しています」

こうして無事に紙面に掲載された。

しかし、である。精神科医になるには大学の医学部を出なければならない。どの大学でも医学部は最難関である。彼は成績優秀であったのに違いない。しかも、私ではないが、朝日新聞の誰かが朝日新聞に原稿を書いてくれるよう依頼した。ということは精神科医として実績をあげ、それなりの評価を受けている人物ということになる。つまり、彼はインテリであり、エリートである。
そのインテリ、エリートがこんな文章しか書けないのか? 学生時代も、仕事を始めてからも、論文は沢山書いただろうし、口頭で患者に難しい概念を説明する機会だって多いはずだ。精神科医というのは、こんな意味不明の論文、説明で世を渡ることが出来るのか?
不思議である。新聞は名文は求めない。新聞は誰にでも分かる文章を求める。それが書けないインテリ、エリート。天は二物を与えないということなのか?

デスクとは記者の書いた原稿を商品に仕上げる仕事である。勢い、目の前に出て来た文章のいいところではなく、悪いところに目がいく。そのためだろう、自分の文章力は棚に置いて

「うちの記者って原稿が下手だな」

と思ってしまうものである。私もそうだった。
しかし、この精神科医の原稿と格闘してからは、若い記者の原稿を見ても

「さすがに記者だな」

と思うようになった。何より、一読して分かるのである。文章の拙さは直せば済む。十読しても分からない原稿は直しようがないのである。

ではあるが、最近の私はまた

「今の朝日新聞の記者は劣化しているのではないか? 着眼点、取材力、文章力に問題があるぞ」

と思っている。
私も齢を重ね、古代エジプト以来の

「今どきの若い者は」

という病にかかってしまったのかもしれないが。