03.03
私と朝日新聞 電子電波メディア局の2 山口朝日放送に行く
山口朝日放送に行くには、宇部空港で飛行機を降りることになる。宇部市から山口市までは結構距離がある。タクシーで行って会社に請求する手もあったが、何故かバスを使った。確か、どこかで乗り換えが必要だった。
いま山口市の人口は20万人弱である。だが私が山口朝日放送の社外取締役になったのは平成の大合併の前のことだ。当時は人口14万人に達しない地方都市だった。数百年前には「西の京」と呼ばれる盛時もあった歴史の町も、当時は三重県津市と並んで、人口の少ない県庁所在都市として知られていた。山口市にお住まいの方には申し訳ないが、寂れていた。
する仕事は、どこの放送局でも同じである。役員会に出て配付された資料に目を通し、ひたすら議論を拝聴する。終われば宴席で酒を酌み交わす。だからだろうか、私が山口で何をしたかの記憶がほとんどない。確か、ベンツの190Eをお持ちの役員がいらっしゃって、市内の名所を案内されたことが記憶に残っている程度である。
そのころの私は思っていた。山口朝日放送はなぜ山口市に本拠を構えたのか。下関市でも良かったのではないか。下関はフグの本場である。季節になれば、役員会終了後の宴席で、本場のフグ料理を賞味できたはずである。だが、山口市にある山口朝日放送の宴会には、とうとうフグは姿を現さなかった。
という程度のことしか頭にない社外取締役なのだ。こんなもの、何の役に立つのかね? いや、これは私が社外取締役であった体験を語っているだけである。ひょっとしたら、朝日新聞から来て役に立った社外取締役がいらっしゃったのかもしれない。批難されるべきは、私の勤務態度である。
だが、ローカルテレビ局の方々とそれなりに親しくなると、様々な話が耳に入るようになった。苦情の聞き役である。苦情とは、朝日新聞からの出向なのか天下ったのかは知らないが、とにかく、そんな連中に対するぼやきである。
「報道機関の頂点にいるのは朝日新聞。ローカルテレビ局の報道記者なんて何も知らないヤツらだから朝日新聞から来た俺が取材の基本から鍛え直してやる、って体中で表現されていてですね。若い連中が戦々恐々として職場がまとまらないんですわ」
ふむ、そんなヤツに人望が集まるわけはない。そもそも、新聞とテレビではリテラシーが違う。テレビには映像がなければニュースにはならないし、新聞なら写真なしでも記事になる。そんな出発点の違いすらわきまえず、
「全員、朝日新聞流の記者になれ」
ってか。朝日の記者はそんなに優れているか?
いや、100歩譲って、テレビ記者も新聞記者と同じになった方がいいとしよう。それでも、だ。お前さんはすでに朝日新聞をお払い箱になった元記者ではないか。朝日新聞では使いものにならないと判断されたからローカルテレビ局に送り込まれたのだろう。それもわきまえず、
「俺が教えてやる、指導してやる」
ってか。片腹痛いわ!
苦情を聞きながら、私はそんなことを考えた。そしてひたすら
「申し訳ない。我慢していただくしかない」
と頭を下げるしかなかった。私も朝日新聞の一員なのである。そして具合が悪いことに、私には人事権がない。訴えを聞いてなるほどと思っても、その問題人物を異動させる権限はない。頭を下げ続けるしかないではないか。
企業の命運を最終的に決めるのは人事だと私は思う。最適な人間を最も相応しい職場に配置する。その能力を伸ばすため、新しい仕事に挑ませる。企業を成長軌道に乗せるには人事に意を注ぐしかない。
しかし、受け入れたローカルテレビ局に重荷をしょわせるような人事を朝日新聞は繰り返してきたようである。えっ、あのゴマすり野郎があのテレビ局の社長? あいつにテレビ局の役員が務まるか? そんな人事を私は、数多く見てきた。朝日新聞の都合で、あるいは人事権者の好みで人事が決まる。
かつては800万部を超えていた朝日新聞の部数も、いまや公式発表で400万部強というから、実売部数は400万部を切っているのに違いない。桐生市には朝日新聞の販売店がなくなり、毎日新聞の販売店に配達を依頼している。
無論、若い世代の新聞離れという大きな流れが根本にあることは間違いない。だが、くっきりと情実の陰が見て取れる人事、朝日新聞の都合しか考えない人事もいまの衰退を招いた一因ではないか?
私の頭からはそんな疑いが消えないのである。