05.30
私と朝日新聞 桐生支局の31 記者クラブの話、の3 異動する記者に松井ニットのマフラーを贈り始めた
私の記者クラブ改革は、記者間の交流をもっと増やそう、記者同士、もっと仲良くなった方がいい、というのが出発点だった、地元の桐生タイムス、県紙の上毛新聞を除けば、桐生を担当する記者は各社1人ずつである。取材ではライバル同士で勝ったり負けたりするが、しかし、同じ記者という職業を選んだ同志でもある。勝負をする時は勝負する。しかし、四六時中勝負しているわけではない。であれば、記者という仕事を選んだ者同士、交流を深めた方が良くはないか?
2つの記者クラブで別々に開かれていた記者会見を1本化した。異動する記者の送別会も一緒に開くようになった。そこまで進んで、私はもう1つ思いついた。
「桐生を出ていく記者に、桐生で仕事をした想い出になる送別の品をプレゼントしたらどうだろう?」
私の頭にあったのは、松井ニットのマフラーだ。私が
「こんな綺麗なものを生み出す町なのか!」
と感じ入った品である。桐生で取材し、記事を書いて人事異動で去って行く「同志」に、桐生で働いたことを忘れさせないために松井ニットのマフラーを餞別として記者クラブからプレゼントしたらどうだろう?
これもクラブ総会にかけた。異論はなかった。記憶にないが、
「どこからそのお金を出します?」
という質問があったかも知れない。私の頭ではすでに答がある質問である。
それは、各社が出している記者クラブ費で賄う。足りなくなれば、臨時会費を各社から徴収すればいい。あるいは、記者クラブ費を値上げする手もある。
そして私たちは記者クラブ費を値上げした。確か月1500円にしたのではなかったか。
こうして、桐生を去る記者には松井ニットのマフラーが1本ずつ贈られることになった。
松井ニットは毎年、5,6本の新作を出していた。旧作を合わせれば、数十のデザインから、去って行く記者の首を飾るマフラーを選ぶことになる。その役目は、提案者である私に任された。私が
「〇〇君にはこれ、▢▢君にはこれ」
と選ぶのである。その頃には松井智司社長とはずいぶん仲良くなっていた。
「また人事異動がありまして、マフラーが要るんですが」
と松井ニットを訪れると
「ありがとうございます。お陰様で」
と感謝の言葉をいただいたが、なーに、記者の異動なんて年に数回しかない。年間で4,5本しか記者クラブは買わないのである。それが松井ニットの経営を支えたはずはないが、思わぬことに、松井智司社長とより親しくなる手立てにはなった。
さて、マフラーの選択を任された私は、いくつかの原則をもってマフラーを選んだ。ひとつは、異動する記者に対して私が持つイメージである。活動的な記者には、躍動的な色彩のマフラーを選んだ。じっくり考えるタイプの記者には茶系統の落ち着いたデザインのものを選んだのではなかったか。そして迷った時は、本人なら絶対に選ばないであろう冒険的な色をチョイスした。松井ニットのマフラーなら、どれを選んでも首に巻けば必ずおしゃれに見えからである。
私は新しく始めた桐生市役所記者クラブの試みを、朝日新聞前橋総局で会議があった際に同僚に話した。予想もしなかった反応が出た。
「大道さん、それ、いいですね! ここでもやりましょうよ!!」
こうして、朝日新聞でも、群馬を去って行く記者、仕事やめるアルバイトの女性に松井ニットのマフラーを贈ることが定例化した。柄の選択はこちらも私任せである。
前橋で開かれる送別会の日、私は必要な本数の松井ニットのマフラーをもって前橋に行く。送別会が宴たけなわになると、いよいよ私の出番だ。
「〇〇君には、こういう理由でこの柄を選びました」
と適当にコメントしながら1本ずつ渡すのである。皆喜んでくれた。総局を去る女性には、私がマフラーを首に巻いてやったような気がするが、あれは今ならセクハラか?
桐生を去った記者、群馬県を去った朝日新聞の記者は、みな松井ニットのマフラーを少なくとも1本もっている。冬になったら、各人の首まわりを美しく飾っているはずである。