2002
08.02

2002年8月2日 夏目漱石と「門」

らかす日誌

原宿の魚屋小菊からの実況中継です。

 (注) 
小菊= 原宿で一番いい飲み屋。魚が安くてとびきり美味い。客が増えて入れなくなると困るから匿名にしました。

 (ここまでに、2人でビール3本)

俺さあ、本が好きで人様以上に読んでいると思うけど、やっぱ、近代文学の最高峰は夏目漱石だと思っているわけよ、いまだに。
でね、去年買っちゃった、全集を。
新刊で買おうと思ったら、岩波書店が出してるヤツしかなくて、1冊3500円から4000円近くするのよ。しかも、全29巻。ね、全部買うと10万円じゃ足りないわけ。出せませんよ、そんなには。置き場所にだって困るし。それでなくても、本とビデオテープに我が家は占領されつつあるんだから。
だから、古本を探したわけ。
あった、ありましたよ、角川書店が出したヤツで全16巻。これを1万6000円で買いました。はい、読みましたよ、全巻。3、4ヶ月かかったかなあ。

あ、お母さん、アジの刺身ね。それから、ビールもう1本。

ん? 何で夏目漱石かって?
聞いてくれる? 俺と漱石には歴史があるのよ。

高校3年のときだよ。国語の時間に、担当だったおばあちゃん先生が

「漱石の『猫』読んでない人、手を挙げて」

といったんで、

(通ぶって、何が『猫』だ、この野郎。『吾輩は猫である』と正式名称をいえばいいじゃないか)

なんて心の内で毒づいたんだけど、読んでなかったものだから手を挙げたわけ。正直ですよ、私。真っ正直。わかるでしょ?
そしたらさあ、なんとクラスで手を挙げたのは俺を含めて3人だけ。

「あれっ、俺って究極のマイノリティなわけ?」

と思ったんだけど、おばあちゃん先生が追い打ちをかけてくるじゃあないの。

「えっ、大道君、君も読んでないの?」

だって。

え? 次は日本酒にします? お酒は1合800円だよ。いつもこの店で沢山お金を払うのは日本酒を飲むからだよ。だって、2人で2合瓶を5本呑んだら酒代だけで8000円だぜ。
焼酎はどう? 安いよ、遙かに。
ああそう、今日は酒にするの。財布にお金入ってる? だって、もうすぐ給料日じゃないの。
大丈夫だって? わかったよ。

お母さん、藤助ね、そう、藤助。2合ね。

(注) 
藤助 = 南魚沼郡湯沢町で作られている日本酒の名前。正式名称は「湊屋藤助(ミナトヤトウスケ)」。美味い。

 えーと、どこまで行ったんだっけ。
そうそう、

 「君も読んでないの」

 っていわれたところだよね。
「君も」というところに、俺への評価があるわけだが、ま、それはこの際関係ないよね。

 俺は疑ったね。ほかの奴ら、本当にこの本を読んだのか。読んでないのが恥ずかしくて、手を挙げなかっただけじゃあないか? 正直者の俺が恥をかいたんじゃあないか、ってね。

 でね、学校の帰りに本屋に寄りましたよ。自転車を飛ばして。探したら、「吾輩は猫である」って文庫本だと上下に分かれてるのね。知ってた? あ、知ってる、そりゃどうも。

 買いました、「上」だけ。両方買うとお金かかるしね。うん、岩波文庫。インテリは岩波っていうのが当時の常識じゃあないですか。

 読み始めて、やっぱ、クラスの奴らは嘘つきだと確信したね。ちっとも面白くないんだもの。それに、擬古文というの? なんか、難しい漢字もいっぱい出てくるしさ、「上」だけ、つまり全体の半分だけ読むのに俺がこんなに苦労したのに、3人を除く全員が全部読んでいたなんて、信じられるか、ってなもんですよ。

 しばらくはそれっきりですよ、漱石とは。クラブ活動はあるし、受験勉強もしなければならないし、たまにはデートもしなければ楽しくないし。
そうそう、俺のデートって学校内で有名でね。

 「理想の男女交際ですよ」

 なんていってくる後輩もいてさ。それがね、
あ、これも関係ないね、この際。

 漱石ですよ。面白いと思えないから、読みたいという気が起きない。大文豪何するものぞ、だよ。そんなこんなで漱石なんてどこかに飛んでいっちゃった。

 本当に漱石に出会ったのは、これがまた面白いんだけれど、大学浪人中に毎月1回、福岡の予備校まで出かけて受けていた模擬試験なんですよ。うん、現代国語の問題に、漱石の「門」が出た。問題文の最後に「夏目漱石『門』より」なんて書いてあったからわかったんだけど。でなきゃあ、わかりませんよ、はい。

 問題文はね、

 (以下は酒席で出たものではありません。翌日、本を見ながら書き写したものです。当然ですが)

 宣道はこんな話をして、暗に宗助が東京へ帰ってからも、まったくこの方を断念しないように、あらかじめ間接の注意を与えるようにみえた。宗助は謹んで、宣道のいうことに耳を借した。けれども腹の中では大事がもうすでに半分去ったごとくに感じた。自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。たヾ、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と言う声が聞こえただけであった。彼はどうしたらこの門の閂を開けることができるかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成することができなかった。したがって自分の立っている場所は、この問題を考えない昔と毫も異なるところがなかった。彼は依然として無能無力に閉ざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別を便りに生きてきた。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そうしてはじめから取捨も商量も容れない愚かなものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ、思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもって生まれてきたものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまで辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉がいつまでも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

 漱石って、正確な漢字表記を気にしなかった人なのね。だから、おかしな漢字がいくつも出てくる。「耳を借した」なんて、最初は誤植かと思っちゃったよ。
ま、それはいいとして、

 あれ、お酒がないな。

 お母さん、藤助。えーっ、もう5本目かね。今日も結構呑んでるね。この人、とにかくピッチが早いんだよ。俺も早いけど。それから、オコゼの刺身。オコゼは残った骨を唐揚げにしてくれるんだよね。
うーん、マテ貝も美味そうだな。それもちょうだい。

 はい、いや、これが問題文で、これを読んで次の問いに答えろ、ってやつだけど、どんな問いが出たのかはまったく記憶にありません。ただ、この問題文を読み始めて、もちろん、問いに答えるためなんだけど、読み始めたら目が離せなくなってしまったのよ。ぐいぐいと引き込まれてね。
いやあ、いま読んでも背筋がゾクゾクするものね。ちっとばかり頭がいいと思って生きている俺みたいな人間の存在の根元が、ぐらぐら揺れる。このときなんですよ、本当に漱石に出会ったのは。

 だめだよ、お酒をこぼしちゃあ。高い酒なんだから。
あー、だめだめ、ふきんで拭いちゃもったいないでしょ! こう、口を寄せていってさ、すするんだよ、ズズーッって。そうそう。
それにしても酔ったかね。酔ってない? 強がるね、いつも。
だったら、らりるれろって言ってごらん。

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 ほら、うまくいえないじゃあないの。
「り」が「い」に聞こえるしさ。「る」だよ、「う」じゃないんだよ。酔ってんだよ、酔ってます。
酔ってないって? がんばるね、まったく。

 でさ、模擬試験が終わると、その足でまた本屋だよ。もちろん「門」ですよ。それからしばらくは、「それから」とか「こころ」とか、「行人」とか、漱石ばかり読んでたんです。

 「ああ、俺は漱石と同じだ。知識人の悩みを悩んでるんだ」

 なんて一人で悦に入ったりね。若気の至りだよね。

 でさあ、なんで全集まで買ったかというと、これにもきっかけがあった。
最初は漫画です。

 朝日新聞が主催している「手塚治虫文化賞」って知ってる? あ、知らない。案外教養がないんだ。あ、ゴメン、ゴメン、気を悪くした? 冗談だって。半分は本気だけど。
その1998年のマンガ大賞を受けたのが、『坊ちゃん』の時代ですよ。関川夏央さんの原作で、谷口ジローさんが書いたヤツ。全5巻で6000円弱なんだけど、買って読んだんだよ。面白い。これで、夏目漱石が再び身近になったわけよ。読んだ? 読んでない? 読みなさい。
関川夏央っていい作家だよ。「海峡を越えたホームラン」なんて名著だね。
あ、また脱線した?

 次に、江藤淳さんの漱石とその時代全5巻が完結したのをきっかけに、全巻買って読んだわけ。もうだめね。頭の中で漱石がぐるぐる回って、漱石が読みたくてたまらなくなって、漱石全集を探したのよ。非常に高いレベルで知的刺激を受けたわけだ。ある? 知的刺激を受けたことって。あるって? 何だよそれ?

 ところで、どうする? もう10時を過ぎたよ。そろそろお開きだね。

  じゃあ、お母さん、お茶漬けね。うん、いつものように、中に入れる魚はお任せ。それと、そろそろ勘定ね。

 ウッ、ほら、藤助をがぶ飲みするから、勘定がこんなにいっちゃったじゃない。割り勘だよ、割り勘。ほら、お金を出して。

 次回は焼酎よ。焼酎の方が遙かに安いんだから。いいね。

 さあ、帰ろうよ。え、まだ話しが終わってない? いいじゃないの、そんな些細なこと。江藤淳に刺激されて漱石全集を買ったっていうだけなんだから。もっと詳しく話せ、って? いやだよ、もう。おれ、疲れた。帰って寝るわ。

 酔っぱらいの話は、突然終わった。