2002
09.27

#1 告白

事件らかす

 自宅で、芥川龍之介を読み始めた。随分前に買った「筑摩現代文学大系」の中の一冊である。
いまさら、教養を豊かにしようというのではない。

(解説)
もう間に合わない。

 私は本を読むのが好きである。したがって、読むのが比較的早い。読み飛ばす本の量は、毎月かなりに上る。これは、ちっとばかり、財布にきつい。原宿のBOOK-offはよく活用しているが、遺憾なことに、BOOK-offには読みたい本があまりなくなってきた。私が読みたくなるような本は、なかなかBOOK-offには回ってこないようだ。

(解説)
子曰く。学びて思はざれば則ち罔し。思いて学ばざるは則ち殆うし。
私は、学んで思わないタイプ?

 毎月の書籍費を、どのようにして減らすか。本末転倒かもしれないが、時間つぶしもかねて本を読む私にとっては切実な問題である。

(解説)
だって、飲み代、昼食代、デジタルビデオデッキを活用するためのテープ代、たばこ代……。お金はいくらあってもたりないのです。

 かつては、英語のペーパーバックに手を出したこともある。辞書も引かずに読み飛ばすのだから、細かなところはわからない。粗筋がわかるぐらいである。それでもかまわない。これだと、日本語訳の本なら1、2日で最終ページまで到達してしまう本が、1ヶ月ほどはもった。1冊あたりの単価は日本語訳の文庫本より高いが、時間あたりの単価はずいぶんと安くつく。これが何よりもありがたい。

(解説)
ほかにもいるのかな、節約のためにペーパーバックを読むヤツ。今朝の通勤電車でペーパーバックを読んでいたお姉さんもそうかな?

 読んだのは、競馬シリーズのディック・フランシス、元シナリオライターのシドニー・シェリダン、作者は忘れたが、“Back to the Future”の1、2,3。このあたりは何とかなった。少なくとも、粗筋は理解できたつもりになれた。
「寒い国から帰ってきたスパイ」のジョン・ル・カレにも手を出した。1ページも進まず、挫折して、日本語訳を買いに走った。チャーチルの本を人様にいただいた際は、チャレンジだけはした。

 こんな無茶な読書を、「英語に慣れるため」と称して押し通した。いや、押し通そうとした。当然、継続するはずはない。

 で、芥川である。
「筑摩現代文学大系」。すでに料金は支払い済みである。いたずらに書棚を占拠して、場所を塞いでいるだけである。これを読む分には、お金がかからない。その中で、たまたま芥川を最初に手に取った。

 ただ、「筑摩現代文学大系」には1つだけ問題がある。かさばって重い。通勤電車の中で読むのはつらい。従って、自宅では芥川、電車の中では、文庫本か新書本。つい先日まで新堂冬樹の「無間地獄」、いまはスタンレー・コレンの「デキのいい犬、わるい犬」を読んでいる。次は中山康樹の「超ジャズ入門」の予定だ。

 自宅にはまだ、真保裕一、佐藤賢一、竹中労、R・N・パターソン、江藤淳、池宮章一郎、吉村昭、小田実の本が、手にとってもらうのを待っている。

 その上、今日はまた7冊も本を買ってしまった。
東直己×2、ピーター・バーンスタインの「リスク」上下、加来耕三の「信長の謎」、岩崎正吾の「信長殺すべし」、それに塩屋賢一の「犬の上手なしつけと訓練法」である。

(解説)
また、5000円札が飛んでいった…… 。

 「あなたの友人がどんな人間か知りたければ、彼の書棚を見よ」

 という。
私の友人は、私の書棚を見て、私をどんな人間であると判断するのだろうか。はなはだ興味を引かれるところではある。

 いや、話は芥川である。
この「筑摩現代文学大系」の芥川龍之介集には、侏儒の言葉が、まとまった作品としては収録されていない。目次で確認してがっかりして読み始めたら、「『侏儒の言葉』より」という断片が、あちこちに散りばめてあった。

 その中の1つに目が留まった。

告白
完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
ルッソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は「懺悔録」の中にも発見出来ない。メリメは告白を嫌った人である。しかし「コロンバ」は隠約の間に彼自身を語つてはゐないであらうか? 所詮告白文学とその他の文学との境界線は見かけほどはつきりしてゐないのである。

 包丁は切れなければものの役に立たないが、切れすぎる包丁は恐い。芥川は、切れすぎる包丁である。人間の心理の襞の奥の奥を、スパッと切り取って読者の前に放り出す。
読者は、次々に照明をあてられる心理の襞を目にする。そのあとで沸き上がってくるのは、これまで見えなかったものが見えた喜びではなく、自分の中にもあるグロテスクさと対面してしまった当惑である。
芥川は神のような立場に自らを置き、「お前たち人間は、この程度のもでしかないのだ」というメッセージを送り続ける。芥川にとって人間は、取るに足りない塵のようなものにすぎない。芥川を読んで受ける被虐感が、彼の作品の最大の魅力なのだろう。

(解説)
つまり、芥川の作品は精神的マゾヒスト向けということか?
最初に手にした本が芥川だったあたしって、あら、やっぱりそうかしら…… 。

 いや、芥川を論じる場ではない。

 こんなことが頭にあったからだろう。数日前、またいつものように、近くの小料理屋「K」で飲んでいて、
「告白」
が話題になった。

 「中学生のときなんだけどさ、仲間内で告白合戦が始まってね」

 「それはまた、どんな」

 「いや、入学以来仲良くしていた4人仲間のうちの1人が、突然グレ始めたのよ。不良グループと付き合いだして、俺たちと距離を取り始めた」

 「グレるとか、不良とか、ほとんど死語に近いですよね。礼人さん、年齢がわかります

 「聞きたいの? 聞きたいんだったら、チャチャを入れたりしないの!」

 「あ、いえいえ、話してください」

 「そう、それでいいの。あれ、どこまで話したんだっけ?」

 「ほら、友達が不良になりかけたってところ」

 「あ、そうそう、それでね、友達として放っておくわけにはいかないじゃない。で、放課後、そいつを呼びだしてさ。話を聞いたわけ」

 以下は、夕暮れ迫るころ、私の通った九州のある町にある中学校の教室で起きた事実のリプレイである。

「わがくさ、なんかこの頃、おかしかっちゃなかとや?」

―君、何かこの頃、おかしくはないかい?

 「なんがおかしかか」

―なにがおかしいんだ。

 「おったちと、いっちょん付き合わんで、おかしかヤツとばっか、付き合うとるやなかか」

―僕たちとはちっとも付き合わずに、変な連中とばかり付き合ってるじゃあないか。

 「それがどげんかしたとや」

―それがどうした。

 「わがも知っとろうが。あんやったちは不良ぜ。おりもこないだ、あんやったちにボールペンばがめられたっぜ」

―君も知ってるだろう。彼らは不良だよ。僕も先日、彼らにボールペンを取られてしまったんだ。

 「わがくさ、あんやったちと付き合うとばやめろ。あんやったちと付き合うとっと、どげんなるかわからんぜ」

―ねえ君、彼らと付き合うのはやめろよ。彼らと付き合ってると、どうなるかわからないぞ。

 「おりがどげんなったっちゃよかやなかか」

―私がどうなろうといいではないか。

 「なんば言いよっとか。よかこたなかろうもん。もう一回、真面目にならんか。真面目になって、おったちと付き合わんか」

―何を言ってるんだ。いいことはないだろう。もう一度真面目になれよ。真面目になって私たちと付き合おうではないか。

 「うるさか! わがどんな、なーんも知らんけん、そぎゃんかこつばいうとたい」

―うるさい! 君たちは何も知らないから、そんなことを言うんだ。

 「なーんも知らんちゃ、どげなこつか。おったちは友達やなかか」

―何にも知らないとはどういうことだ。私たちは友達ではないか。

 「しぇからしか! なんが友達か」

―うっとうしいなあ。何が友達だ。

 「友達やろもん。なんか知らんばってん、おったちが知らんこつのあるなら、言うてみんか。なんか、考えらるっかもしれんやなかか」

―友達だろう。何かは知らないが、僕たちが知らないことがあるなら、言ってみないか。何か考えることができるかも知れないではないか。

 「E、言うてみれや」

―E、言ってみろよ。

 「おりも、聞きたか。言うてみれ」

―私も聞きたい。言ってみろ。

 

 

(この間、27秒)

 

 

 「ほんなら、言うてやる。よー聞けよ。おれん親父はヤクザたい。ヤクザん息子ん、勉強したっちゃ、しょんなかろもん。成績の上がったっちゃ、どげんもならんやろもん。みんな言うとばい、あんヤツはヤクザん息子っち。わがどんにはわからんやろもん、ヤクザん息子っち言わるっとがどげんかこつか。おりが不良と付き合うとっともそんためたい」

―それだったら言ってやる。よく聞きたまえ。私の父親はヤクザなのだ。ヤクザの息子が勉強をしても仕方がないだろう、成績が上がったとしても、どうにもならないではないか。みんなが言うのだ、あいつはヤクザの息子だと。君たちにはわからないだろう、ヤクザの息子と言われることがどういうことであるかというは。私が不良と付き合っているのもそのためだ。

 

 

(この間、44秒)

 

 

「なんば言よっとか。わがん親父はヤクザかも知れんばってん、日本人やろが。こりまで誰にも言わんやったばってん、おりが親父は日本人やなかとぞ。朝鮮人ぞ。ヤクザぐらい、なんか!」

―何を言っているのだ。君のお父さんはヤクザかも知れないが、日本人だろう。これまで誰にも言わなかったが、私の父親は朝鮮人だ。ヤクザぐらい、何だというのだ!

 

(この間、6秒)

 

 「なんば言よっとか。わがん父ちゃんな、朝鮮人たっちゃ、ちゃーんと真面目に働きよらすやなかか。おりが親父は、昼間も家におっとぞ。ヤクザで飯ば食いよっとぞ」

―何を言う。君のお父さんは、朝鮮人といっても、ちゃんと生業について働いていらっしゃるではないか。私の父親は家にいるのだ。ヤクザで生活費を稼いでいるのだ。

 「ばかたれが! わが、いっぺんでん、朝鮮人て呼ばれたこつのあっとか? どげん気持ちんすっとかわかっとっとか? わがくさ、親父んヤクザだっちゃ、わがが真面目んなったらよかろもん。おりは、どげんしたって朝鮮人でしかなかとぞ!」

―馬鹿者! 君は、一度でも朝鮮人と呼ばれたことがあるか? どういう気持ちがするかわかるか? 君、お父さんがヤクザであっても、君が真面目になったらいいだろう。私は、何をしても朝鮮人でしかないのだ。

 このころから、この両名は涙声になって参ります。

 残る2人は、ことの意外な成り行きにあっけにとられ、口も挟めないまま、両人のやりとりを聞いておりました。
しかし、友達、です。傍観者にとどまってはいられません。義を見てせざるは勇なきなり。

 「わがどんが話はわかったたい。ばってん、ヤクザがどげんした! 朝鮮人がどげんした! わがどんの父ちゃんな、ちゃーんと働いて金ば持ってきなはるやなかか。うちん親父は、アル中ぞ。働かんとぞ。金は持ってこんとぞ。そっじゃけん、いま、生活保護ば受けよっとぞ。生活保護ば受けるっち、どげん恥ずかしかか知っとっとか!」

―君たちの話は分かった。しかし、ヤクザがどうした! 朝鮮人がどうした! 君たちのお父さんは、ちゃんと働いてお金を稼いでいらっしゃるではないか。私の父親は、アル中だ。働かないのだよ。金は稼がないのだよ。だから、いまは生活保護を受給しておる。生活保護を受けるということが、どれほど恥ずかしいことであるかわかるか!

 これも涙声であります。

 残りの1人も、おずおずと、告白合戦に参加しました。

 「おりんとこは、わがどんのごたる問題のなかけん、恥ずかしかー。なんか、悪かこつばしよるごたる。ばってん、E、やっぱ、真面目になったほうがよかばい。真面目にならんとでけんばい。友達やろが」

―私の家族には、君たちの家庭のような問題がないから、恥ずかしい。何か悪いことをしているような気分だ。しかし、E、やっぱり、真面目になった方がいいよ。真面目にならないといけないよ。友達だろうが。

 (解説)
すべて現地の言葉で収録した。
面白いのは、youという2人称に、「わが」という言葉があてられていることである。いや、正確に言うと、「わが」は所有格、つまりyourという意味もある。多分、原形は「我」であろう。現代の日本語では、「我」は1人称の人称代名詞である。つまり、1人称と2人称が転倒している。現地語の特徴である。

 青春は全力投球である。である。だから、青春は美しい。青春はもの悲しい。

 小料理屋「K」の酒席は、この話で盛り上がった。全員、大声で笑った。私も、一緒に笑った。過ぎ去った青春を思い出して冷静に眺め返し、大爆笑した。

 が、私の心のどこかに、もの悲しさのかけらが落っこちていたことも確かである。
みんな、そうして大人になった!?

 あれからもう50年以上。
そして、私はここにいる。
朝鮮人としてカミングアウトした友は、大学を出て東京の証券会社に勤め、いまは転職して埼玉に住む。
E君と、もう一人の友は、いつからか音信不通になって今日に至っている。

 財政政策の一環として読み始めた芥川が、とんだ昔を思い出させてくれた。

そうそう、私も「告白者」の一人であった。どの告白が私のものか、想像をたくましくしていただけるとありがたい。