2003
07.04

グルメに行くばい! 第1回 :みそ汁

グルメらかす

お袋の作るみそ汁が、嫌いだった。
理由はただ一つ。不味い!
食卓にみそ汁が乗ると、

「またか」

と、憂鬱になった。
毎朝食卓に出てきた。
毎朝憂鬱だった。

一日の始まりをこんな気分で迎えるのは、精神衛生上、極めてよろしくない。いまなら、憂鬱さを一日引きずりそうである。
だが、当時は、みそ汁とはこのようなものである、としか思わなかった。お袋の作るみそ汁しか知らないのだから、ほかに考えようがなかった。
おかげで、グレもせず、元気に学校に通った。

汁を飲んで美味しくないだけではない。お袋のみそ汁には、ダシをとるのに使った煮干しが、そのままの姿で入っていた。口に入れると、煮くずれた、頼りない歯ごたえの中から、何とも言えない苦みが染み出した。
こんなに不味いものを、どうして食べなければならないのか。お袋に問いただしたことがある。

「みそ汁っち、いっちょんうもなか。なんで食べんとでけんと?」 
(邦訳:みそ汁というのは、ちっとも美味しくない。なぜ食べなければならないのか?)

「身体に良かつよ。煮干しも残さんと食べんね。煮干しは骨になっとやけん。うもなかっちゃ、薬と思て食べんとでけんよ」 
(邦訳:体にいいのよ。煮干しも残さずに食べなさい。煮干しは骨になるのですから。美味しくなくても、薬と思って食べなければいけませんよ)

(余談) 
すでに80歳をこしたお袋は、女学校卒である。この年代としては極めて高学歴な部類に属する。ま、ちょっとしたインテリである。だからであろう。煮干しの「栄養価」を説明し、子供の口に入れさせようとした。本来、感覚の部類に属するものを、理屈で説明する。これを、頭でっかちという。インテリによく見られる、悪い癖である。 
事実はこうである。不味いものは不味い。どんな説明をされても、不味い。食い物は頭で味わうものではない。舌で味わうものなのだ。

 そんなことを言われてもねえ……。
俺は、毎日、薬を食べなければならないのか?
そもそも、俺は薬で育つのか?

そんな高等な反論は、当時は思いつかなかったが、毎日の食事は、ちっとも楽しくなかった。

とはいえ、成長期は、情けないほど腹が減る。どんぶり飯を3杯、4杯食べたところで、2時間もすると腹の虫が鳴き出す。1日に少なくとも3回、できれば4、5回、何かを胃袋に収めないことには、食い物のイメージが我が頭の中を走り回る。どんな美人が目の前を横切ろうと、火花がバチバチ飛ぶような視線を送るゆとりはない。動物としての本能にむち打たれながら、食い物にかぶりつくしか選択肢はない。
美味かろうと不味かろうと。

こんな不味いものがなければ成立しない日本の伝統的食事とは、まことに不自由なものである。
日本に生まれたことを恨んだ。食い物の恨みは恐ろしいのである。

それが。

「えっ、みそ汁ってこんなに美味しいものだった!?」

22歳の時、突然開眼した。

何を間違ったのか、大学生3年の3月に結婚した。当時、23歳。不思議なことに、22歳だった新婦は大学を卒業する直前だった。
ん? 俺より年下の人間が、俺より先に大学を卒業する?!
時間の流れは、たまに乱れる。そうでなければ、名画「Back to the Future!」は成立しない。

(余談) 
どうでもいいことだが、23歳にもなって大学3年生だったのは、人よりたくさん勉強をしようという意欲が強すぎたためである。勉強ができなかったのでも、さぼったのでもない。 
いいわけに聞こえる? 
………………………………。

 結婚するとなれば、やはり相手の両親にご挨拶に行かねばなるまい。
私は福岡市に下宿していた。新婦になる人は横浜の人だった。
夜行列車で、20時間もかけて横浜まで出かけた。

大学生である。日々の生活に必要のないスーツなど、持っているはずがない。手持ちの衣料で一番まともだったのは、Gパンと丸首のセーター、それにアーミージャケットだった。
髪をカットするお金も、貧乏学生には惜しかった。自然、髪は伸びる。ロングヘアーである。とはいえ、理髪店に行かないために長くなっているだけだから、今の若者のロングヘアーのように、デザインされているわけがない。ただ、長いだけのロングヘアーである。
靴? バスケットシューズに決まっている。

私は、このような出で立ちで横浜に乗り込んだ。

挨拶をして、彼女の親父としこたま酒を酌み交わして、一晩泊めてもらった。
そして翌朝。
食卓にみそ汁が乗っていた。

やっぱなー、日本の朝はみそ汁なんだよなぁ。横浜まで来て、みそ汁を飲むのかね。ケッ! ま、仕方ないか。

出されたものに箸を付けないのは極めて失礼である、程度の常識は、学生ながら備えていた。私は、教養豊かな常識人なのである。素っ頓狂な出で立ちは、単に、貧しさが表に現れた結果に過ぎない。
仕方なしに、みそ汁に挑んだ。

「えっ、みそ汁ってこんなに美味しいものだった!?」

何とも、美味しかった。我が家で飲まされ続けたみそ汁がスッポンなら、これは月だった。

(余談) 
と書いたら、 
「スッポンの方が美味そうだ」 
との指摘を受けた。なるほど。 
で、ここで書き直す。 
「我が家で飲まされ続けたみそ汁が提灯なら、 これは釣鐘だった」

 同じ「みそ汁」で、こんなに味が違う!?
口には出さなかったが、心底驚いた。世の中には美味いものがある! 同じ呼び方をされても、こんなに違いがあるものなのか!
何ともいえず、こくと深みがあった。旨みとしか表現しようがない味も感じた。香りが食欲をそそる。口に含み、飲み下すと、身体が喜んだ。

「すいません。みそ汁をお代わりしていいですか」

思わずお椀を差し出していた。

(余談) 
自宅では方言丸出しだった私だが、大学にはいるとすぐに標準語を身につけた。九州の大学で、まわりはほとんどが九州出身者で、九州各地の方言が飛び交っていたにもかかわらず、である。 
東京に出て、我がフィアンセの友人に会って話していると、 
「生まれは東京?」 
といわれた。
論理的な思考、論理的な話術には、人工言語である標準語が合う。私は、誰に言われたわけでもなく、独力でアカデミズムの中枢に迫る言語ツールを、いつの間にか獲得していた。才能と呼ぶほかはない。 
いずれにしても、私の語学の能力は人並み優れているのに違いない。 
もっとも、日本語に限った話のようだが。

 挨拶に行った報告をするため、自宅に戻った。
やっぱり、みそ汁が出た。
やっぱり、不味かった。

結婚するまでに、何度か横浜にお邪魔した。みそ汁が楽しみになった。
楽しみが重なると、

「何故?」 

という探求心が頭をもたげる。同じみそ汁の、この味の違いは何なのか? 何故なのか?

その原因を探った。
味噌が違うのか?
あり得る。両家の経済力が違う。

それでもなあ。我が家が100g 50円の味噌で、横浜が1000円の味噌ということもあるまい。
それに、どんなに価格の違いがあったにせよ、同じ味噌である。それだけで、こんなに味が違ってくるか?

とすれば、秘密は調理にあるのに違いない。いったい、何が違うのか。それを見つけなければ、死んでも死にきれない。
さりげなく、台所に目を配った。

あれっ、これかな?
ピンと来るものがあった。

ダシをとる煮干しの量が違うのである。我が家の1.5倍から2倍はある。ダシをとったあとの煮干しが鍋から出されるのはいうまでもない。

「ひょっとしたら、たくさんの煮干しでキッチリダシをとるのが、美味いみそ汁を作る秘訣なのではないか?」

新しい発見は、心楽しいものである。煮干しの量の違いという重大な事実に気がついた私は、世界の神秘の1つを我が手で暴いたような満足感に包まれた。その日のみそ汁は、心なしか、いつもよりさらに美味しかった。

それまでの私にとって、食事は空腹を満たすものだった。1日に3回とればいいものだった。確かに、美味しいにこしたことはない。しかし、そもそも、美味しいものをあまり知らなかった。目の前にあるものを食べるしかない暮らしだった。

どうせ食べるのなら、食べなければ露の命が維持できないのなら、美味しいものを厳選したい。不味いものは口にしたくない。
それをグルメな生き方という。

1杯のみそ汁が、やがて自称「グルメ」を生み出す。
自称「グルメ」が活動を始めるのはずっと後のことだが、出発点は、間違いなく、このみそ汁だった。

活動を始めた後の自称「グルメ」は、美味しいみそ汁を作るのはそれほど難しくないと考えている。

ポイントは、

1,きっちりダシをとる 
○ 煮干しを使う場合は、たっぷりめに用意した煮干しの頭とはらわたをはずす。そのうえで、前日の夜から、この煮干しを水につけておく。翌朝は、そのまま火にかける。 
火にかけると、当然のことながらやがて沸騰する。沸騰し始めたら、臭いに注意する。注意して、煮干しのいい香りがし始めたら火をいったん止める。それ以上沸騰させ続けると、煮干しの魚臭さまでがダシの中に出てしまう。 
ダシがとれたら、煮干しは捨てる。栄養価のほとんどが溶けだしており、いわば「出しがら」になっているから、食べても美味しくない。 
○ 昆布と鰹節でとる場合は、まず水に利尻昆布を入れ、火にかける。沸騰したら昆布を引き上げ、代わりに鰹節をいれて1、2分沸騰させる。鰹節はこしとる。引き上げた利尻昆布と鰹節は捨てずにとっておく。あとで酢昆布、佃煮にするためである。

2,このダシで、みそ汁の具を煮る。煮る時間は具の種類による。煮すぎると美味しくない。食べ頃になるちょっと手前で火を弱める。配膳するまでにはまだ時間がかかる。熱くなったダシの中に入っている具は、火を弱めても加熱され続ける。この段階で食べ頃にまでしておくと、配膳したときには煮すぎになってしまう。

3,味噌を入れる。お玉にとってダシと合わせながら溶かしていく。時々味見をし、味噌の投入量を判断する。

4,再び加熱する。加熱して、沸騰する寸前に火を止める。決して沸騰させてはならない。

 これだけである。簡単でしょ?

と書いて、我が畏友「カルロス」に原稿を読んでもらった。
前にも書いたが、彼はプロのシェフである。渋谷に自分のスペイン料理専門店を持っている。スペイン大使館でパーティがあると、彼が呼ばれて料理を作る。ネットで見ても、彼の店の評価は高い。
彼の味覚、彼の料理の腕は、私が認めるところである。
しかも、彼は我が大学の後輩である。最高学府まで進んだためか、食べ物に関する彼の知識は深い。

今回の連載の監修は、彼に依頼することにした。「とことん合理主義 – 桝谷英哉さんと私 第12回」に書いた「10万円のアドバイス料金」はまだ私の口座に振り込まれていない。彼に、私の依頼が断れるわけがない。

1つだけ指摘された。

「いりこ(煮干し)は、もともと保存食品で大漁で余剰を長いあいだ、少しずつ食べるためです。元々、いりこは全部食べるのを前提に、作られた食品なのです! したがって、貴兄の母上の方がただしいのであります。出汁が出きったとありますが、お茶と同じで、栄養分はほとんどいりこ本体にのこります。したがって、先人は出汁をとった後のいりこを、佃煮にしたり工夫したのです」

これが、指摘の全文である。あまり上質な日本語ではない。はっきり言えば、下手な日本語である。
それでも趣旨は分かる。なるほど。

それはそれとして、読者サービスとして、佃煮の作り方を書き加えることにした。

 

1,フライパンに少量のごま油を入れて火にかける

2,種をはずした唐辛子を輪切りにする

3,ダシをとって鍋から引き揚げた煮干しの水を切り、唐辛子と一緒にフライパンに入れ、まず砂糖、次に醤油、さらに醤油と同量の水を加え、最後に照りをつけるためにみりんを入れていためる。量は砂糖3、醤油3、みりん1の比率。もちろん、この比率を好みによって変えるのは、全くかまわない

4,出来上がった佃煮を食器に移し、小ネギを刻んでふりかけ、ご飯に乗せて食する

 お試しあれ。