04.02
グルメに行くばい! 第32回 :アサリのパエリア
突然だが、
我が妻は、お祭り好きである。鉦や太鼓の音がかすかにでも聞こえてくると、フワッと腰が浮く。ソワソワする。やがて、いても立ってもいられなくなる。
このような性格を、軽薄、お調子者と呼ぶこともある。
我が妻は、仕切たがり屋である。口を出す。まず自分の体を動かす。群衆の一員になるより、群衆を動かす存在になりたがる。
このような性格を、お節介、ゴッドマザーと呼ぶこともある。
1700食を作り、売ったその日、疲れてはいたが、充実感、満足感があった。
(余談)
人間の充実感、満足感なんて、その程度のもので得ることができる。何と簡単なことよ!
夜11時をすぎて自宅にたどり着き、まだ起きていた妻に一日の様子を簡単に話した。
妻が言った。
「明日、私も行く」
代々木公園の喧噪ぶりを聞き、その場の雰囲気を想像し、もって生まれた血が騒いでしまったらしい。
「手伝う。子供も連れて行く」
断固として言い放った。後戻りのきく状態ではなかった。
かくして、翌日10時半頃、我が家族が代々木公園の掘っ建て小屋に姿を現した。
午前10時半。それは前日の体験からすると、あと10分ほどすれば、我が掘っ建て小屋の前に人垣ができはじめる時刻である。
前夜の私の話から、妻はその事実を知り抜いていた。掘っ建て小屋に着くなり、鞄からエプロンを取り出し、さっと身につけた。普段の緩慢な動きからは想像もできない早業である。
気合いが入っている。
妻は、我が隣に並ぶと、包丁を握ってタマネギを刻み始めた。鶏肉を切り始めた。ピーマンの種を抜き始めた。
やがて、前日と同じように人の波が押し寄せてきた。列ができる。混乱が始まる。
やおら、妻が包丁を手放した。意を決した表情で掘っ建て小屋を出ていく。おいおい、手伝いに来たんだろ? この、1日中で一番忙しいときにどこに行くんだ?
妻は、掘っ建て小屋の正面に回り込んだ。人垣の中に歩を進める。その表情のなんと生き生きしていることか!
「はい、皆さーん、こちらに並んでください。パエリアの列はこちらですよー。はい、もう少し詰めてくださーい。はい、はい、もうすこーし。はい、ありがとうございます」
「あ、ここで曲がってくださーい。曲がっていただかないと、隣のお店にご迷惑になりまーす。はーい、ありがとうございまーす」
「ああ、すいませーん。ええ、もう30分もお待ちなんですか。ごめんなさいね。もうすぐできますから、もうちょっとお待ちくださーい。ほら、いい香りがしてきたでしょー。もう少しで新しいパエリアができますからねー」
「あれ、僕たち、どこから来たの? そう、川崎から。お母さんと一緒なんだ。いいねえ。そう、お腹空いたの。あ、ちょっと待っててよ」
「ねえ、お焦げを出してくれない? ほら、あそこにいる子供たちにあげるんだからぁ」
独壇場である。
無秩序な群衆が、見事に秩序ある人の列に変わった。
(感想)
妻の適職。
ワンマン会社のオーナー社長。
幼稚園の保母さん。
交通警察官。
ずっと専業主婦をさせてきて損したかも知れない。
この日も、混乱は午後3時近くまで続いた。毎日パエリアの昼食ではつまらなかろうと妻が持参したおにぎりと漬け物で、手早く昼食を済ませた。
一段落して、何かが足りないことに気が付いた。
なんだろう?
音楽である。
雑音があふれている職場だが、音楽は絶無だ。労働環境を向上させるには、バックグラウンドミュージックがいる。
「おい、CDラジカセを買ってこい。子供がほしがっていたから、ちょうどいいだろう。ここで使って、イベントが終わったら子供のものにする」
かくして、我が掘っ建て小屋にBGM設備が導入された。CDラジカセは、カウンターの後ろにあるステンレス製のテーブルにしっかり設置された。CDはまだ用意していない。とりあえず、FMで音楽を流した。
(余談)
もちろん、クリスキットを持ち込むことも考慮した。しかし、アンプとCDプレーヤーだけならまだしも、スピーカーまで持ち込むとなるとことである。
この日記には記してないが、このイベントの数年前、あるパーティに、クリスキットのセットと自作の120リットルのスピーカーを持ち込んだことがある。確かにすばらしい音質で音楽が場内に流れた。オープニングはモーツアルトのピアノコンチェルト20番であった。客は喜んだ。私は搬送だけで疲れた。
今回は、この反省の上に立っての決断である。
我が家族は4時半頃帰っていった。
妻の顔は、満足感でキラキラ輝いていた。単調な家事に追われる日常生活を離れ、自らの本能を120%発揮した解放感と、ここち良い肉体疲労のせいである。
店は午後8時に閉めた。この日も、1500食近い売り上げがあった。
疲れた。疲れが日ごとにたまる。仕事を終えると、我が体内に蓄積した疲労の量が計量できる気がした。
翌朝、手提げの紙袋に、20~30枚のCD と、ビール酵母を詰め込んで自宅を出た。
CDは、いわずと知れたThe Beatlesである。John Lennonである。スペイン料理であるパエリアを売る店で、BGMに英国のロック・バンドであるThe Beatles、そこから独立したJohn Lennonはいかがなものか、という見解もあるだろう。
なーに、かまいはしないのである。スペインにだって、The Beatlesのファンはたくさんいるのである。連中はThe Beatlesを聞きながらパエリアを食っているに違いないのである。The Beatlesの音楽は世界遺産なのである。なんの違和感があろうか。
ビール酵母は、疲れをとるためである。ビール酵母について、丸元さんの本から私が抜粋したものを下に掲げる。
[ビール酵母]
B12を除くビタミンB群を網羅的に含む。
50%はタンパク質で、必須アミノ酸組成が理想に近い。特にリジンの比率が高い。リジンは、米や小麦には少なく、組み合わせるとタンパク価を高める。臭いが強いので、ス-プやソース、トマトジュース、にんにくや玉ねぎを使った料理に混ぜる。
食前に飲むのがいい。胃の働きを高めて食欲を増進させる。
14種の必須ミネラルを含む。
重要なのはクローム。血糖値を正常に保つ。
セレニウムも重要。ビタミンEと働いて、酸化で起きる老化、組織の変成(ガンの原因)を防ぐ。
唯一の欠点はリンが多いこと。高カルシウム食品と食べ合わせが必要。
ビタミンB群のPABAは、強い太陽光線から皮膚を守る。
疲れを感じたら、大さじ1、2杯のビール酵母を飲む。
あわせて、「クエン酸サイクル」という言葉を知る必要がある。簡単にいうと、体内で糖分、蛋白質、脂肪を燃やしてエネルギー物質に変える過程だ。このサイクルがうまく回っていないと、体がエネルギー不足状態になる。それだけでなく、体内疲労物質である乳酸も、このサイクルが活発に動いていないと燃えてくれない。
重要なのは、このサイクルの節目節目には、ビタミンBのどれかを含む補酵素が欠かせないことだ。だからこのサイクルをうまく回してやるには、ビタミンBがグループで必要なのである。ビール酵母は、ビタミンBをグループとして含む栄養補助食品なのである。
だから、疲れたときにはビール酵母。
とは、丸元さんからの引き写しである。
前日、前々日と比べれば、客足は多少落ちてきた。が、中で働く私と畏友「カルロス」は、目の回り方が多少少なくなっただけだった。新しく戦力として加わったビール酵母を口に含みながら、BGMにThe BeatlesとJohn Lennonを聞きながら、相変わらず多忙なWork Dayを過ごした。
宴の後は、突然に訪れる。
宴が華やかであれば華やかな分だけ、宴の後は寂しいものである。
(余談)
だから、老後のことを考えれば、企業内での出世はそこそこの方がよろしい……?
宴が3日続いた。
4日目から、宴の後が来た。
「おい、今日は客足が少ないなあ」
「しょんなかばい。ほら、雲行きば見てみんね。なんか、雨の降るごたるおかしか空やろが。こりば見たら客はビビって出て来んばい。ま、昨日まで死ぬごつ忙しかったけん、今日はのんびりするばい」
のんびりする。書くのは簡単だが、実行するのはなかなか難しい。
前日までは、忙しすぎて死ぬ思いをしたというのに、凡人は、暇になったらなったで、時間をもてあますのである。
先にしびれを切らしたのは、畏友「カルロス」であった。
「ちょっと行って来るばい」
まだ売れぬパエリアを紙皿によそった畏友「カルロス」が腰を上げた。
「どこに行くんだ?」
「ちょっと、偵察たい」
1時間ほどしてカルロスは戻ってきた。持っていったパエリアが消えている。だが、両手は相変わらずふさがっている。
「食べんかね」
見ると、タイ風ラーメンである。
「どうしたんだ?」
「いやあ、ちょっと挨拶代わりにパエリアを持って、隣の店に行ってきたとばってん、帰るちゅうたら、こりば持っていけちゅうとやもんね。断っとも悪かけん、もろてきた」
代々木公園内のミリオンキッチンにおいて、革命が起きた。お金を媒介にして商品と商品を交換する経済が否定され、新しい取引形態が成立した。
革命の引き金を引いたのは、かつて革命運動に従事せんとの志を持った時期もあった畏友「カルロス」である。
我々が持った新しい経済形態は――交換経済であった。物々交換であった。簡単にいえば、取り替えっこであった。
ミリオンキッチン内で販売されている食べ物を手に入れるのに、お金は不用になった。我々が掘っ建て小屋で作ったパエリアを持参すれば、何でも手に入った。食べる心配は不要だ。
店の中から見て、左隣がタイ風ラーメンの店だった。右隣は中華粥の店である。正面にはお好み焼きがあった。少し歩けば、カレーもピザもハンバーガーも手に入る。
お金の心配をしなくていい暮らしは快適だった。
「うーん、ラーメンはいまいちだな。よし、カルロス、ちょっと広島風お好み焼きを食べてみたくはないか?」
「おい、カルロスよ。明日の朝は自宅で朝食を食べるのをやめて中華粥にするかね?」
なにしろ、我が掘っ建て小屋には、パエリアは売るほどある。手元に売るほどあるものというのは、時間がたつと見るのもいやになる。この、人間の本性に深く根ざした好悪感は、「グルメに行くばい! 第2回 :目刺し」に登場した卵の話でも証明済みである。
見るのもいやになったパエリアがなんとでも交換できる。お金がいらない。
革命とは、なかなかによきものである。
「おい、カルロスよ、ワインはないか?」
「なんばすっとね?」
「いや、お好み焼きをこのまま食べるのでは芸がないだろう。やっぱり、ワインに合わせて、ちょっとリッチな食事にしたいではないか」
Gパンに汚れたTシャツ、パエリア鍋からこぼれ落ちたスープを吸い込んで黄色くなったリーボックのスポーツシューズを身につけた中年親父が、掘っ建て小屋でリッチな食事を志す。このアンバランスが、何とも革命的である。
「任せんね。ワインはちゃんと用意してあるばい!」
わが雇い主が応えた。
かくして、まだ日も落ちない午後4時、我が掘っ建て小屋では、ワインのコルクが飛んだ。ワイングラスが出てきた。出てきて、例のステンレス製テーブルに鎮座ましました。
琥珀色のワインが、トクトクトクと注ぎ込まれる。おもむろにワイングラスを右手に持ち、テーブルから少し浮かせて緩やかに回してやる。エージングである。こうしてやることで、ワインの味覚がぐっと深みを増す。
ゴクッ、フーッ。美味い。仕事の疲れが押し流される。この瞬間のために働いてきたような気さえする。
こういうときのBGMは、「Abbey Road」で決まりである。レコード時代ならA面の1曲目の「Come Together」ではない。B面の1曲目、そう“Here Comes The Sun”だ。澄み切ったギターの音色にのって、ワインと一緒に空に登っていきそうな気分だ。このまま天国にだっていける。
♪
Little darling, it’s been a long cold lonely winter
Little darling, it feels like years since it’s been here
Here comes the sun, here comes the sun
うっとりしながら、ワイングラスをステンレス製のテーブルに戻した。戻したとたん、グラスを持っていた右手に、何かがペタッとくっついた。
ん?
右手に目をやった。今朝方切った鶏肉が、ステンレス製のバットから飛び出し、ちょうどワイングラスの下にいた。ワイングラスの底に、鶏の脂がべったり付いて幕を作った。
夢が覚めた。
我々は、天国への旅の途中にいたのではなかった。相変わらず、掘っ建て小屋でパエリアを作り、売る仕事に従事していた。
オアシスは、ほんの一瞬、見えた気がしたにすぎなかったのである。
(余談)
どうせ見るなら、「邯鄲の夢」にしたかった。ゴージャスで、リッチで、しかも哲学的である。
ワインを流し込み、お好み焼きを食べ、夕食を求めてやってくる客に備えた準備作業が始まった。
というわけで、今回も終わりませんでした。このテーマ、来週に続きます。もう飽きちゃったですかぁ?
でも来週は、The BeatlesとJohn Lennonのおかげで、たいへんなことが起きるのです。
乞う、ご期待!
パエリアまみれで働いている以上、レシピはパエリアにしてみました。それも、【アサリのパエリア】です。
材料(4人前)
殻付きアサリ:200g
タマネギ:半玉=みじん切り
オリーブオイル:大さじ3
塩:大さじ1
魚のダシ汁:カップ半分
作り方
1,たまねぎをオリーブオイルで軽く炒め,アサリを全部入れる。
2,水をアサリがかぶるくらい入れ、強火にする。
3,アサリの口があいたら魚のダシ汁を加え、と塩で味付けする。少し濃い目のお吸い物を作る感じ。
4,米1.5合を加える。沸騰して水面が下がったら火を細め、アルミホイルで蓋をする。その後、20分位加熱すると少し焦げたようなにおいがし始めるので火を止め、10分ほど蒸らす。
最後にみじん切りしたパセリを振りかけてやれば、よりいっそう美味しくいただけます。
なお、魚のだし汁は次の要領でとってください。
白身魚のアラを用意する。
フライパンで、ざく切りしたタマネギ、セロリ、ニンジンをオリーブオイルで軽く炒め、ぶつ切りにしたアラを加えてさらに炒める。色が付いたら水を入れ、白ワインを少々加え、灰汁を取りながら30分ほど加熱する。
最後に、布巾などで濾せば完成です。
以上です。お試しあれ。