2006
06.14

2006年6月14日 ダ・ヴィンチ・コード

らかす日誌

巷で噂の「ダ・ヴィンチ・コード」を見に行ってきた。

平日に? 平日に。
しかも、堂々と。

仕事をさぼって? 仕事はさぼらずに。
堂々と胸を張って。

実をいえば、妻に付き合って慶応大学付属病院まで行ってきた。妻は2度目の大腿骨骨折(「事件らかす #5  年賀のご挨拶」を見てください)後、歩くのが苦手だ。1人で電車に乗せるのはちと心許ない。ために、遠くまで出かける必要があるときは、私が運転手を務めなければならない。

今回は、 腎臓の具合を見るため、先日、検査入院をした結果を聞きに行ったのである。指定された時間は午前9時半。ここは長年の同居人である妻のご機嫌を取るためにも、

「私にとって大事なのは、仕事よりお前だ」

と、心は別として、少なくとも態度で示しておかないことには平穏な家庭生活が送れそうにない。ために、会社を休んだのである。なあに、最近は「らかす日誌 2006年6月4日 久々の連休」 にも書いたように、土日が仕事になることが多いので、つじつまは合うのだ。

午前8時半前に車で自宅を出て国道1号線から首都高速を使い、9時過ぎに無事到着した。検査結果は良好で、自宅近くの病院に通えばいいことになった。が、病院というのは何かと時間がかかる。帰宅したのは午後1時前になった。

昼食を済ませた。ここまでは、しなければならないことがあったからよかった。それがなくなって、ふと思った。いつもなら会社にいる時間に自宅にいる。職場の仲間は会社で働いているというのに、私は何もすることがない。それでいいのか?

貧乏性なのである。

何かすることはないか? 考えを巡らせているうちに、ふと思いついた。それが「ダ・ヴィンチ・コード」だった。

「数多くの善男善女が映画館に詰めかけているらしい。私はその列に加わらなくていいのか?」

かくして、午後2時15分スタートの部に間に合うべく、川崎のチネチッタに出かけた。

結論を急ごう。

わざわざ金を払ってまで見る価値のない映画であった。金と時間が無駄だった。

まず、この映画、先に本を読んでいなければストーリー展開について行くのが難しい。原作をつまみ食いして短くした脚本は、

「えっ、何でこの人が突然善人になるの?」

など考え込んでしまう。訳の分からないお話に成り下がったトホホ映画である。

まあ、それには目をつむってもいい。だが、原作に忠実であろうと心がけてつまみ食いしているものだから、いったい、何をしたかったのか分からない映画になっちゃったのは困ったものだ。原作では暗号解読のおもしろさが先を読もうという興味を引っ張るのだが、このあたりはほとんどがうち捨てられた。では、あらぬ疑いをかけられた大学教授の冤罪払拭活劇に仕立て上げられているかというと、そうでもない。

いってみれば、何もない映画になっちゃっているのである。

キリストにはセックスをした相手がいて、子供まで作っていて、その子孫が今でも存在する、という1点が全世界のキリスト教関係者を刺激し、あの国では上演が禁止された、などとメディアが報じてブームを作った。

私も乗せられた1人ではある。だが、乗せられて確信した。これって、阿呆なライターたちが映画会社の観客動員キャンペーンに荷担しているだけである。こんな駄作に、世を動かす力などない。なにせ、相手は曲がりなりにも2000年以上の歴史を誇るキリスト教なのである。

あ、そうそう、1点だけ妙に感心した。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で、キリストの左に座っているのは実は女性だ、というのは原作にもあったが、この映画では、その女性をコンピュータでキリストの右に持って行ってみせた。なるほど、こうすると2人の体が密着して女性がキリストにしなだれかかっている図にになる。映像には説得力がある。

という程度の映画ですが、まだご覧になっていらっしゃらない方、それでも映画館に足を運んでみますか?