09.10
2006年9月10日 駄作
今日夜8時から、WOWOWで蝉しぐれ( 黒土三男監督、市川染五郎・ 木村佳乃主演)を見た。見終わってがっかりした。こんな映画を作っていては、日本映画の再生は遠い。原作者の藤沢周平さんも、墓場の陰でアレアレと嘆息しているに違いない。
この映画、困ったことに、原作を読んでいなければ何が起きているのか理解できない。
原作は、政治に巻き込まれて数奇な運命をたどりながらも、結ばれぬ純愛を貫く幼なじみの文四郎とふくを描いた。崇高ともいえる人間の美しさを歌い上げた藤沢文学の傑作である。原作は、2人が弄ばれてしまう政治の動き、思惑がきっちりと描かれている。だから、文四郎とふくという人間の美しさが浮かび上がる。人間とは、これほどまでに美しいものか、俺は汚れちまったかなあ、昔は2人の10分の1、いや100分の1程度は美しかったはずだけどなあ、感動する。
ところがこの映画では政治がちっとも見えてこない。なんでも、藩の上層部が世継ぎを巡って2派に分裂した。文四郎の父はその一方に属し、派閥抗争に負けたために切腹させられた。例えてみれば、私利私欲に凝り固まって行われる企業内の派閥抗争で、負けた派閥の連中が閑職に追いやられたようなものだ。これでは、いくら文四郎とはいえ、
「おかしな親父を持っちゃったね}
というしかない。
ふくの色香に殿様が迷い、江戸藩邸の寝室に連れ込んで男の子まで作る。これは、世継ぎを巡る派閥抗争に勝利した側には放置できない事態だ。1人目に子どもは殺した。2人目の男の子が生まれると、2度と同じ目に遭うものかと、ふくは子供を連れて藩の領内の隠れ家に潜んだ。内緒で移ったはずなのに、なぜか勝利派閥側には筒抜けで、派閥の領袖は文四郎に男の子を奪ってこいと命ずる。何故文四郎が選ばれたのか、見ている私はとまどうしかない。
文四郎はやむなく、ふくの隠れ家を訪れる。何とかしてふくたちを助けるつもりで出向くのだが、不思議なことに勝利派閥側の刺客30人ほどが、文四郎に続いて隠れ家に乗り込むのだ。
おいおい、文四郎はたった1人だぜ。そんな人数を動員できるのなら、最初から文四郎に命じたりせずに刺客を送り込めばいいではないか。文四郎に何をさせたかったのかね?
という具合に、2人の愛が、結ばれぬ純愛にならざるを得なかった背景の描写がずさんなのだ。いってみれば、原作のハイライトシーンを、できのよくない糊で貼り合わせたような作品、といえばおわかりいただけるだろうか。2時間少々の時間ですべてを描くことは難しいだろうが、継ぎ接ぎ作業だけでできた作品に多くの観客が感動するとは思えない。
とはいえ、ハイライトシーンは、やっぱりいい。なかでも、腹を切った父の遺骸を荷車で引き取った文四郎が、上り坂の途中で動けなくなったとき、坂の上からふくが駆け下りてきて無言のまま荷車の後を押すシーンでは涙腺が緩んだ。
これほど力のある原作なのにねえ、なんかもったいない使い方をしてない?
そういえば確か昨年、かのNHKが蝉しぐれをハイビジョンドラマにした。3部に分け、全部で4時間以上の作品だったこともあって、出来ははるかによかった記憶がある。デジタルビデオで録ってあるから、そのうちもう一度見てみようかな。