11.04
2008年11月4日 私と暮らした車たち・その7 フォルクスワーゲンビートルの3
私が心の底から愛したフォルクスワーゲンビートルの逝去は、「旅らかす 中欧編 III : なぜか、ワーゲン」で軽く触れた。今回は、その詳報である。
愛知県は製造業が強い。中でも、トヨタ自動車、及びその関連企業が光り輝いている。名古屋で仕事をすると、かなりの確率でトヨタ自動車の人々と知り合うことになる。私も知り合った。トヨタ自動車が、トヨタ自動車工業、トヨタ自動車販売に別れていた時代である。
「大道さん、一度うちの工場を見に来ませんか? そう、子どもさんもお連れになるといい。きっと喜ぶと思いますよ」
知り合ったトヨタの人がいった。
「それはありがとうございます。確かに子どもたちは喜ぶと思います。なにしろ、目の前で車ができていくんですからねえ。是非お願いします」
まずは、お招きをありがたく受け入れた。だが、心配なことがあった。
「それはいいのですが、ご存じのように私の車はフォルクスワーゲンビートルです。この車に子どもたちを詰め込んでいくことになりますが、大丈夫ですか?」
トヨタの人は怪訝な顔をした。
「いや、トヨタ以外の車に乗っていると、トヨタの駐車場には入れてもらえないという話を聞いたことがあるものですから。確かにね、トヨタの人からしたら気持ちいいことではないでしょうしねえ」
噂はもっとあった。トヨタ車以外の車に乗っている従業員には、通勤用のガソリン代が支給されない、ともいわれていたのである。
「そんな噂があるんですか? ふーん、私はもちろんうちの車に乗っているから、意識したこともなかったなあ。でも大丈夫ですよ。うちの駐車場でも、時々他社の車を見ますよ」
その日、我が子と近所の子ども合計4人をビートルに放り込み、豊田市まで出かけた。確かに、駐車場の入り口で止められることはなかった。噂とはその程度のものである。
トヨタの工場を見学するのに、フォルクスワーゲンビートルで乗り付けた人間が私以外にいたかどうかは確認し忘れた。
技術系のトヨタの人にも出会った。
「大道さん、車は何にお乗りですか?」
「最初はトヨタのカリーナだったんですが、いまはフォルクスワーゲンのビートルに乗っています」
「ははあ、乗り換えられてどうですか?」
口は災いの元、ともいう。相手の立場に配慮しながら話すのは、お互いに気まずくならずに交際を続ける極意である。それは十分承知している。だが、私は根っからの正直者でもある。
「はっきり言って、次元が違いました。ビートルって素晴らしい車です」
「そうですか。そんなに違いますか。ところで、ビートルのどこがそんなにすぐれていますか?」
どっちみち喧嘩は売ってしまったのだ。ここで矛を収める意味はない。
「最大の違いは、シートです。とにかく疲れない。運転していて楽なのです。あの快適さはトヨタの車だけでなく、知人の持っている国産車に乗っても得られません。車ってのは、遠く離れた場所に移動するための手段ですから、運転して疲れないというのは最大の価値だと思います」
さて、このトヨタの技術屋さん、どんな反論をしてくるか? それによっては次の論理を用意しなければならない。
私は身構えた。
「やっぱりそうですか。うーん、私たちにも分かってるんですけどね……」
えっ、認めちゃう? あなた、トヨタで車を作ってるんでしょ? なのに、自分たちが作っている車が劣っているといわれて素直に認めるの?
「実は、ビートルを含めて欧州の車は、ほとんどと買って試験をしています。もちろん走らせますし、最後は分解する。確かに、ビートルをはじめとした欧州の車はシートのできがいい。それは我々にも分かっていて、シートを分解してコンピューターで解析して、『同じシート』を作ったこともあるのです。ところが、同じものを作ったはずなのに、組み立てて座ってみると、座り心地が違うのです。やっぱり元の欧州車のシートの方がいい。悔しいし不思議なのですが、それが現実です。そうですか、ビートルはシートがいいですか。やっぱりなあ」
私はこのトヨタの技術屋さんを尊敬した。
人間とは、自らが作って世に送り出しているモノに誇りを持つものである。いや、誇りを持ちたいものである。だから、外部からそのモノを貶められると、猛然と反論する。自らの商品が如何にすぐれているかを力説する。口から出る言葉に嘘があることを自覚していても、力説せずにはいられない。
なのに、このトヨタの技術屋さんは違った。素直に、トヨタ車のシートは欧州車のレベルに達していないことを認めた。技術屋さんとは、こと技術に関してはこれほど開けっぴろげなものなのか!
いまトヨタは、世界一の自動車メーカーになった。それを支えたのは、自らの力量を正確に認識し、常に追い越せ、追い抜けと研究を続けてきたトヨタの技術屋さんの努力である、と私は信じて疑わない。
まだ、トヨタの車に乗る気にはなれないが。
てなことをやっているうちに、名古屋での暮らしも3年に近付いた。私に、東京転勤の内示がでたのは、3月だったと思う。4月から東京である。
となると、3年近い間お世話になった仕事先の人々にご挨拶するのは、社会人として当然の責務である。
「本当にお世話になりまして」
加藤さんにもそう挨拶した。加藤さんは地元の百貨店を経てスーパーで働いている方である。麻雀仲間でもあった。東の2局で緑一色(リューイーソウ)を振り込んだ相手でもある。
「それ、当たり!」
といわれた彼の手配を見た。發と索子(ソーズ)ばかりである。それが2枚ずつある。
「ああ、混一 対々(ホンイツトイトイ)ね」
と軽く受け流した。ん、おかしい。加藤さんの顔が妙に真剣だぞ。
「何言ってるのよ。よく見てよ。ほら、緑の牌ばかりでしょ?」
「あ、ホントだ。きれいですね!」
「これ、緑一色(リューイーソー)という役満なんです!」
「役満?! …………」
それを境に、その日の私はケツの毛を抜かれんばかりに負けが込んだ。財布がずいぶん軽くなった。
その、思い出の加藤さんがいった。
「そうですか、それはよかったですねえ。私も嬉しい。ねえ、送別会をやりましょうよ。女房も大道さんのファンですから、どうです、うちの夫婦とあなたのご家族で知多半島から日間賀島に渡って美味い魚を食いましょうよ」
この手のご厚情を拒否する勇気は、私は持ち合わせていない。緑一色の恨みもある。喜んでお誘いに乗ることにした。
日間賀島に向かったのは、東京に出発する1週間前だったから、恐らく3月20日過ぎである。常々、
「本当は BMWに乗りたいんですけどねえ」
と口癖のようにいっていた加藤さんは、トヨタマークll に奥さんを乗せて現れた。我が家は、当然フォルクスワーゲンビートルである。すでに次女が生まれており、4.5人でのドライブであった。
事故が起きたのは、日間賀島で美味しい魚料理をいただいた帰りであった。行きに発生していたら、もっと悲惨なことになったはずである。
前を加藤さんのトヨタマークll が走っていた。私のビートルが続く。地元の人である加藤さんの方が道に詳しい。近道、渋滞しない道路に通じている。私は彼の後ろを走っていれば楽である。
あと1時間もすれば自宅に着くというころだった。後ろの方から変な音がした。何? と思う間もなく、ビートルの速度が落ちた。上り坂でもないのに、アクセルを目一杯踏み込んでも速度は落ちる一方である。
ビートルは車体後部に積んだエンジンで後輪を駆動する RR(リヤエンジン・リヤドライブ)車である。 ということはあれか。音のしたところ、その後の様子から見て、エンジンに何か異変が起きたのか。
やむなく、路肩に車を止めた。エンジンを停止し、後ろに回ってエンジンフードを開けた。うっすらと煙が立ち上っている。
「オーバーヒートでもしたか? でも、気温はそれほど高くないし、第一、空冷エンジンがオーバーヒートするか?」
エンジンルームをあちこち覗き込むが、素人は悲しい。さっぱり原因が分からない。分かるのは、このままでは自宅に帰り着くことができないということだけだ。途方に暮れた。
「どうしたの?」
加藤さんの声がした。ずいぶん走ってから私のビートルがついてこないことに気が付き、しばらく待った。だが、すぐに目につくはずのビートルがやってこない。事故でも起こしたか、と心配して戻ってきたのだという。
「というわけで、車が動かなくなっちゃって」
「大道さん、あんたJAF(日本自動車連盟)には入ってる?」
聞いたことはあるが、縁はない。
「そう、じゃあ私がJAFを呼んであげましょう」
加藤さんはJAFの会員であった。臨機応変の援助に感謝しつつ、サービスマンの到着を待った。
「ありゃー、これはファンベルトがぶち切れてますねえ」
30分ほどで到着したサービスマンは、エンジンルームを覗き込むとすぐにいった。ファンベルト? ということは、あのままエンジンを回していたら、悪くすればエンジンが焼き付いていた?
「幸いエンジンは焼き付いてない。どこまで行かれる? 名古屋ですか。その程度なら大丈夫でしょう。とりあえず応急処置はしておきますが、このファンベルトはあくまで緊急対応ですから寿命は長くありません。戻られたらすぐに修理に出してください。ちょっとエンジンをかけてくれますか?」
いわれた通りエンジンをかけた。
「うん、何とかいけると思います。で、これ以上はできませんので失礼します」
再び動き始めたエンジンは、喘息持ちであった。動いている間中、ゴホゴホ咳をする。ややもすると寝込みそうである。病身のビートルを酷使してはいけない。できるだけ無理をかけないよう、そろりそろりと走った。途中で加藤さんの車を止め、
「というわけで、我々は超安全運転で帰らざるを得ません。夕方も遅くなったので、加藤さんはどうぞ先に行ってください。今日は家族共々ご馳走になった上に、車の故障にまでお付き合い頂き、重ね重ねありがとうございました」
とご挨拶をした。快適そうなスピードで遠ざかる加藤さんの車は、たちまち見えなくなった。私は、ともすれば息切れしそうになる愛車ビートルをなだめつつ、何とか家までたどり着いた。
さっそく、近くのヤナセに修理に出した。数日して連絡が来た。
「とりあえず、修理はしたのですが……」
とりあえず? 最後まで聞かずに、ヤナセに駆けつけた。
「どうやら、ちぎれたファンベルトの破片をエンジンが吸い込んだようなんです。目についた破片は取り除いたんですが、エンジンの調子がいまいちでして。吸い込んだ破片がシリンダーの中で焼き付いたりしているんでしょうねえ。だとするとお手上げです」
エンジンをかけた。なるほど、喘息の酷い発作は治まっていた。が、咳は出る。喘息は治ったが風邪をひいてしまった、というところである。
「ということなんだが、どうしよう。この車で東京まで走るのは不安だよなあ」
妻に相談した。東京への出発は2、3日後に迫っていた。
「そうよねえ。どうする?」
「買い換えるしかないよなあ」
ということで相談がまとまった。だが、ご厚誼をいただいたトヨタ自動車の方々には申し訳ないが、
「だからトヨタの販売店に」
という具合に行動するには、私はビートルを愛しすぎていた。ビートルが欲しい! ワーゲンがいい!!
自然、足はヤナセに向かった。だが、ビートルはなかった。
こうして私は、私と暮らした車たちの3台目に出会う。
黄色いフォルクスワーゲン・ゴルフだった。