2008
12.18

2008年12月18日 私と暮らした車たち・その20 ベンツC200の2

らかす日誌

シュテルン横浜東の1階は新車の展示場である。ディーラーが売りたいのは中古車ではない。あくまで新車である。店舗で一番いい場所に新車を麗々しく飾るのは当然のことだ。真新しいベンツがずらりと並ぶ。壮観だ。

が、私には縁のない場所でもある。ベンツを新車で買えるなんて、端から考えてもいない。それに、私が欲しい190Eにはもう新車はない。縁のない場所は視線を下に落として素通りするに越したことはない。立ち止まって、変に心が揺れてしまったら大変なことになる。心を鷲づかみされそうな美しい女性を見かけてしまったら、通り過ぎるまでひたすら顔を伏せていた方が無事なのだ。下手に視線を合わせれば、ズルズルと道ならぬ道に引きずり込まれるかも知れないではないか。
と自覚している割に、私はじっと見つめてしまう方だが。

中古車の展示場は2階にある。我々はすぐに2階に上った。10数台の中古車が所狭しと並んでいる。腐っても鯛、とは良くいったものだ。中古車でもベンツなのである。これほどたくさん並ぶと、1階に勝るとも劣らぬ壮観である。

「190Eは、と……」

展示場をぐるりと見回した。ない。私が欲しい190Eは影も形もない。

「え、190Eの中古車ってないのか」

並んでいるのは、やや大型のEクラス、190Eの後継であるCクラス、それにオープン2シーターのSLKである。あれあれ、目的の車がないとは。
が、まあ、せっかくやってきたのだ。見るだけ見てみるか。しげしげと眺めて触ったとて頬をはられることはあるまい。相手は生身の女ではない。

まず、スポーツタイプのSLKに座ってみた。運転席が狭い。座席が低い。これがスポーツカーというものか。屋根がないのは爽快だ。60歳を過ぎ、ロマンスグレーになったころ、こんな車で風を切ったら格好いいだろうなあ。
よくよく見ると、フロントウインドウがかなり小さい。背が高い私が運転席に座ると、額から上は窓の最上部より上に出そうである。小さなフロントウインドウからは前が極めて見にくい。
スポーツカートは我慢して乗る車、と何かで読んだ記憶がある。そうか、こんな我慢をしなければスポーツカーには乗れないのか。我慢してみる?
いやいや、まだ我が家には子ども2人が同居する。2人分のシートしかない車は最初から選択肢の外である。

ほほう、これがEクラスか。でかいなあ。うちの駐車場に入るかな? それに、こちらの方がはるかに大事な問題だが、高い。とても手が出ない。中古のくせに。

Cクラス。これが190Eの後継か。少し大きくなったようだな。そのためか、スリムに見える190Eに比べると太り気味に見える。そうか、これが我が愛読誌マガジンXはじめ、カー雑誌で絶賛されているCクラスなのか。世界で最も上質なファミリーカーで、買うとしたら一番安いC200で充分、とも書いてあったなあ。
どれどれ、いくらぐらいするんだろ?

それぞれの車のそばに価格を表示したスタンドが立っている。年式や排気量で価格はまちまちだ。まあ、それはそうだろう。だが、概して高い。やっぱりベンツは、中古になってもベンツらしい。

「おっ、これなら何とか……」

確か3年落ちのC200だった。228万円と表示してある。

「買えるかも知れないな」

と妻と話しながら、点検モードに入った。190Eは頭から綺麗さっぱり消えている。
外観は綺麗である。目立った傷はどこにもない。タイヤも、まだ充分使える。動かせないのは残念だが、とりあず外観の目視点検では合格だ。190Eがない以上、Cクラスが検討対象になるのは当然のことである。
窓から中を覗き込む。さすがに新車並みとは行かないが、まあまあ綺麗だ。うーん、真面目に考えるか?

ハンドルの奥のメーター類に目をやった。速度計もタコメーターも、オレンジ色の針がゼロを指している。左側に水温計と燃料計。まあ、どこといって変わったところはない。目線が走行距離計に移った。
えっ!
そこに表示されている数字を見て思わず声が出た。
走行距離が、何と6万kmを超えている!
ということは、あれか? この車に乗ってた奴は、1年間に2万kmも走ってたのか? 友人はベンツを持つとついつい運転したくなるといってたが、にしても運転しすぎじゃないか?
それに、いくらベンツだからといって、6万kmも走った車が230万円近くするのか? あと4万km走ったら10万kmじゃないか!

 「おい、やっぱりベンツは高いわ。地球を1周した車が228万円だって。6万kmも走ってたらこれから整備費がかさむかも知れない。やっぱり、中古でもベンツは無理かな」

 「そうねえ。ほかの車を考えたら?」

どうせ手に入らぬ高嶺の花からは一刻も早く目を逸らせた方がいい。我々はひとまず帰宅しようと考えた。

「お客様、車をお探しですか?」

後ろから声がした。振り返ると、男性が立っていた。この店の販売員らしい。

「うん、探しに来たんだけど、6万kmも走ったC200が230万円もするんじゃ、ちょっと手が出ないよね。ベンツには縁がなかったと考えるしかないなあ、と話してたところなの」

男性は答えた。

 「そうですよねえ。確かにお高いですよねえ」

おいおい、こんな値段を付けてるのはあんたたちだろ? 自分たちで付けた値段を、高い、って言っちゃっていいのかね?
と考えている私の心を読んだのか読まなかったのか、男性は言葉をつなげた。

「いまですと、新車の方がお得かと思いますが」

えっ、私がベンツの新車? 考えたこともないぜ。考えるだけ無駄な気もするし。

「いや、中古でも買えないのに新車が買えるわけないじゃない。冗談きついよ」

男性は茫洋とした顔をしていた。腕っこきのセールスマンにはとても見えない。
なのに、しつこさだけは人一倍だった。中古を買う金もないという我々に食らいつき、離そうとしないのだ。

「いえ、ですから、話だけでもいいのでお聞き頂ければ、と。いまですと、かなりの値引きもできますし」

 「いや、少しばかり引いてもらっても手が届きませんよ。無理無理」

 「ほんの少しだけお時間をください」

しつこさに負けた。我々は1階に降り、テーブルで向かい合った。コーヒーが運ばれてくる。そばには真新しいベンツが鎮座する。

「えー、お客様、C200でよろしいのでしょうか?」

 「まあ、まかり間違って買えるとしても、一番安いC200だよね」

 「いや、Cクラスは200で充分ですよ。賢明なご選択です」

なにやら、私がすでにC200購入を決めているような話しぶりではないか。いかん、うかうかとセールストークに乗っているとえらい目に遭うぞ。まあ、金がないから乗りたくても乗れないのが救いだが。

「ところで、そのお値段の方なんですが……」

C200の本体価格は390万円であった。これに諸経費を加えれば400万円を大きく出る。とてもじゃないが手が出ない。
男性は話しながら、見積書に次々に数字を書き込んでいく。電卓を叩いているのは、税金を計算したり、合計額をはじいたりしているのだろう。

「いまなら、この程度の値引きができます」  

見積書が目の前にあった。目で数字を追った。車両価格の蘭に3,500,000とあった。350万円? 40万円も引くの? それでも、税金や諸経費を足すと400万円を少し出る。

 「いやぁ、無理だよ、こんなの」

それでも諦めないのがセールスマンである。何しろこの客、頼んでもいないのにショールームにやってきた。喉から手が出るほどベンツが欲しいのに違いない。金がない? ま、確かに金があるようには見えない。でも、なくたって構わない。売りつけてやるゾー!
などと考えていたんだろうか。

「お客様、分割をご利用でしょうか?」

 「そりゃあ、手元にまとまった金はないし、買うんだったら分割だよねえ」

 「であれば、60回までの分割が可能です。計算してみましょうか?」

 「無駄だよ、払えるはずないもん」

 「ま、数字だけ出してみますので」

再び彼は電卓を叩き始めた。やがて顔を上げると、

「頭金を100万円入れて頂ければ、毎月とボーナス時の支払いはこれだけになります」

数字を見た。毎月の支払額は2万7000円、ボーナス時は15万円。

「へー、60回にも分割するとこんなになるんだ。でも無理だよなあ。そんなゆとりはないだろう?」

横に座る妻にいった。妻はその数字をじっと見た。やっぱり無理ね。そんな言葉が出てくるはずだった。

「うーん、これぐらいなら何とかなるかも知れないわ」

そうだよね、と言いかけて慌てて言葉を飲み込んだ。何とかなる? 家計は毎月火の車ではないか。それでも何とかなる?
本当か? 狂ったんじゃないか? やっぱり算数ができないのか?

だが、どれほど経済観念に乏しかろうと、計算が不得手であろうと、我が家の大蔵大臣であることは間違いない。財布を一手に握る大蔵大臣の言葉は重い。
私は半信半疑のまま、C200の購入を真面目に検討し始めた。