04.14
2009年4月14日 リフォーム
実は、桐生市に居を移すと同時に実行に移したことがある。
我が家のリフォームである。
横浜の我が家が完成したのは1984年秋のことだ。あれから25年が経過した。重量鉄骨を使い外壁を軽量発砲コンクリートにした家である。
軽量発砲コンクリートは当時、最先端の住宅用素材だった。軽く、断熱・防音に優れているとの評価だった。語られなかったのは、水に弱いことである。考えてみれば、気泡があるコンクリートだから、水は気泡をたどって中に進入する。これを止めるには外面を防水とそうするしかない。だから、この間、3度塗り替えた。
だが、さすがに重量鉄骨である。躯体はしっかりしている。歪みものなく、いまだにサッシの開け閉めはスムーズだ。
それはいい。だが、25年たつとどうしようもないところが出てくる。水回りである。特に、キッチンは傷みが進んだ。
当時知り合いだった日本ビクターの友人に勧められ、ビクターのシステムキッチンを採用した。ステンレスの天板、焦げ茶のパネルなど、完成直後は
「家を造ってよかった」
と実感できた。だが、月日というのは残酷である。あれほど輝いて見えたシステムキッチンが、徐々に輝きを失った。パネルから艶が消え、ドアががたがたし始め、あちこちにシミができ、蛇口回りからは水が漏れ始める。
加えて、妻の足が弱った。立ったままの調理、食器洗いができなくなり、いすに座って作業し始めた。システムキッチンが経年変化をするがごとく、妻も経年変化をした。
シンクの下にあるドアを取り外した。いすに座って膝を入れるためである。おかげで、システムキッチンの最大の美点がなくなった。常にドアで遮蔽されているためにゴキブリなどの内部進入が阻めていたのに、ドア2枚を取り去ったためにゴキブリさんは出入り自由になった。
棚のドアも取り外された。邪魔なのだそうだ。加えて
「高い棚は使えない」
というクレームも、日常茶飯になった。
何とかせねばならぬ。いずれはシステムキッチンを入れ替えねばならぬ。ここ数年、それが課題だった。
桐生に転居することになった。住み続けながら水回りをリフォームするのは難しい。リフォーム期間は、別の住居を求めざるを得ない。だとすれば、桐生転居は絶好の機会ではないか?
こうして、我が家のリフォームが決まった。
キッチンをリフォームする。だったら、と普通は考える。私も考えた。だったら、ここも、あそこも直したい、と。
まず、私の寝室を潰したい。ダイニングの隣にあった我が寝室を潰してリビングダイニングにする。
風呂も広くしたい。
やるんだったら、断熱も徹底したい。防音にも気を使いたい。
いざとなると、ニーズは膨らむ。経費も膨らむ。
「そんな金はないよ。いいかい、俺はもうすぐ定年退職者だぜ」
見積もりを見て、何度も突き返した。払えないものは払えないのである。だが、交渉とはお互いが歩み寄ることである。3月始めにリフォームが決まり、4月1日から工事が始まった。現在、工事の真っ最中である。完成予定は5月半ば。
「大道さん、見に来てくれませんか」
リフォームをお願いした工務店の担当者がメールで言ってきた。写真が貼付されていた。かつて、我がファミリーの喜びも悲しみも包み込んでいた我が家が見事にスケルトンになっていた。下の写真でご確認頂きたい。
とうことで、先週の土曜日、11日に1人で横浜に戻った。まず次女にマンションに行き、次女と瑛汰を拾ってリフォーム中の我が家に向かった。
「ここなんですが」
工事を進めるにはいろいろと確認するところが出てくるものらしい。確認しながら、担当者はいった。
「でも、これじゃあ寒かったでしょう」
我が家は軽量発砲コンクリートの内側に1cmほどの桟を入れ、その上にボードを張ってあったらしい。軽量発砲コンクリートと内壁の間に1cmしか隙間がないから、断熱材も入っていなかった。
「ちゃんと桟を組んで、断熱材を入れましたから」
改装後は、恐らく冬暖かく、夏は涼しくなることと思う。
「ここなんですが」
と彼が示したのは、かつての風呂場の床下である。
「普通、お風呂の下はコンクリートで固めるんですが、ほら、鉄板があるだけで乗るとしなります。よくもったなあ」
なるほど、女も家も、本質は外見にはない。外見がどれほど美しくても、その内側が手抜きのし放題であれば、やがて飽きる。事故が起きる。
すべては引っぺがしてみるまでは分からないものである。
そんなことを思いながらリフォーム現場を視察した後、瑛汰のリクエストでエスパのボールパークで遊び、次女の家に立ち寄ってお茶をごちそうになり、そのまま桐生に戻った。往復300kmのドライブだった。
今週の土曜日、18日も来てくれといわれている。システムバスとシステムキッチンが入り、住宅らしくなるから見て欲しいのだそうだ。また300kmのドライブである。
やっと話しが11日まで来た。その後も私の暮らしは続いている。追っかけて報告する。