01.29
2010年1月29日 抜糸
「あれ、見えないな。透明の糸、使っちゃったの? そんな糸、あった?」
私は、診察室の安っぽいベッドに腹這いになっていた。指示通り腹這いになって、抜糸すべき右足を左足の上に乗せ、患部ができるだけ医師の目にとまりやすいようにししている。眼鏡は外し、読み差しの新書は手に抱えている。
「黒い糸を使ってくれてれば簡単に切れたのに」
なるほど。今日の医師は、救急で私の傷を塗ってくれた医師ではない。他人が施した施術の後始末だけを託される立場になった可愛そうな人である。
私の傷を縫った医師は、透明のナイロン糸を使ったらしい。それが肌の色にとけ込み、糸が判別しづらい。見えにくいとぼやいているのである。なるほど、透明のナイロン糸は、肌の上では見えにくいか。
「先生、ヨードか何かで肌に着色したら? 肌だけ色が付いたら透明の糸が浮き上がって見えやすくなるんじゃない?」
素人でも、その程度の発想は持てる。そんな着想が口からこぼれ出ようとしたとき、医師は叫んだ。私の秀逸な発想を採用する気はないらしい。
「電気持ってきて。電気」
えっ、電気? 電気メスでもあてようってか? そんなことしたら、治りかけた患部に再び傷ができるんじゃないの? それより何より、電気代がもったいないんじゃないの? 地球環境保護、二酸化炭素削減にも反するぞ!
「ああ、これで見える。でも、ちょっと遠いな」
出てきたのは、電気スタンドだった。それで私の患部を照らす。こうすると、糸が見えやすいらしい。
コンセントは私の頭の方にあった。患部は右足の小指である。コードをいっぱいいっぱいい伸ばしても、患部まで遠いらしい。なにしろ、私の身長は180cmを超える。
「先生、反対に寝ようか?」
私は、とことん人のために尽くしたい性格らしい。頼まれもしないのに、患者である我が身を動かすことによる解決策を提案する。人がいいにもほどがある、とは私のためにできた言葉か?
「そうしてくれますか?」
眼鏡と新書と枕を持って腰を上げて体を180度回転させ、それまで足があったところに頭を、頭があったところに足を置く。右足を左足の上に乗せるのは同じである。
「ああ、これでいい。見える、見える」
まあ、糸が見えなくては抜糸はできない。これで準備は整った。
で、いよいよ抜糸である。痛いかなあ? そういえば、とげは刺さるときには痛いけど、毛抜きで抜くときはそれほど痛みは感じなかったなあ。とすると、抜糸もそれほど痛くないのかな? ん? 小指のあたりがモゾモゾする。医者が触ってるのかな?
とげの話に戻るけど、抜くときにあまり痛みを感じないのは何故だろう? 毛抜きでとげをうまく挟むことに神経を集中するからか? でも、人に抜いてもらってもあまり痛みを感じないぞ。ああ、痛いの痛いの飛んでけー、って誰かが呪文を唱えてくれているからか。
いや、でも痛くないはずはないだろう。ずっと昔のことで痛みを忘れてるんじゃないか? 人間とは、いやな思い出は自然に頭から閉め出す生きものである。
「はい、終わりました」
えっ、もう? 痛みはあったっけ……。
「曲げ伸ばしする場所ですから、くっついているのは奥の方だけで、割れ目は残ります」
「ということは、いつまでも割れ目があるんですか」
「いや、時間がたてば組織が崩壊していきますから、そうですねえ、2、3週間もすれば元に戻りますよ」
かくして、私の右足小指は、抜糸をしてもポロリと取れることなく、本体にくっついたまま治癒しつつある。
治療費、210円。
まずは、よかった、よかった。
以上、ご心配頂いた方々へのご報告である。