06.21
2010年6月21日 チキンラーメン
先週金曜日夕、横浜に行き、昨日曜日、桐生に戻った。
いや、私に何かの必要があったわけではない。懐妊中の次女に変化があったわけでもない。
「ボス、来なきゃダメ!」
という瑛汰の命令で、桐生と横浜を往復した。事情はこうである。
昨日曜日は、父の日であった。なのに、3人の父親であるはずの私にはなんの恩恵もなかった。3人が3人とも、昨日曜日が父の日であり、私が彼らの父であることは考えてもみない様子で、電話の1本もかかってこなかった。
ところが、瑛汰には父の日があった。瑛汰の通う幼稚園で、
パパと楽しむ会
が、前日の土曜日に企画された。なんでも、父親と園児が一緒に園庭で楽しむのだという。
「それでさ、お父さんにビデオを撮ってほしいのよ。で、土曜日が雨だったら、日曜日に延期するんだって。そうなったら、うちの旦那は仕事だから、お父さんに旦那の代わりをやってほしいの」
以上は、次女の説明である。私が次女を含めた3人の子供の父親であることへの配慮は皆無であった。
「当日は、俺のための父の日でもある。んな、馬鹿なことができるか!」
と一括するのも手ではあった。
が、次女は臨月である。いつお腹が破裂するか分からない。そのため横浜に行きっぱなしの妻は、病気のデパートである。加えて、
「お前は1000年前の人類か?」
といいたくなるほどの機械音痴。ビデオカメラを操作するなんて、100回教えても頭に入るはずがない。
それに、梅雨である。土曜日に決行される保証はない。日曜日にずれ込んだらパパは仕事。ママは身重。ババは病の百貨店、という状況では、瑛汰は演技のパートナーを持てないことになる。そうなれば、幼稚園の先生が代役を務めるとは思うが、3歳児の心は傷つくに違いない。
「仕方がない」
金曜日、早めに職場を離れることを前橋の上司に伝え、雨の降る中、午後5時すぎに車で桐生を出た。
やはり、土曜日は雨だった。日曜日、私がパパの代役を務めることになった。
「はい、お父さん、お子さんの横に並んでください」
園長と覚しきばあさんのマイクを通した指図で、私は瑛汰の横に立った。
「じゃあ皆さん、これからチキンラーメンのダンスを始めます。皆さん、パパにちゃんと教えてあげてください」
チキンラーメンのダンス? なんじゃ、それ?
「チキンラーメンは、世界で初めてできたインスタントラーメンです。元気に踊りましょう!」
ちょ、ちょっと待ってくれ。俺が、何でチキンラーメン音頭を踊らねばならない?!
焦るうちに、曲が流れ始めた。園児たちは、教えられたとおりの身振り手振りを始める。前では、先生たちなのだろう。健康そうな若い女性たちが、にこやかな顔をしてチキンラーメン温度に合わせて踊っている。
おいおい、幼稚園で、一私企業の日清製粉のコマーシャルソングを園児たちに踊らせる? それって、子供の柔らかな頭への究極の刷り込みではないか。園児全員をチキンラーメンの回し者にしようって可? この幼稚園は日清製粉の手先か?
憤然とする。横では、瑛汰がつまらなそうに手足を動かしている。前でにこやかに踊る先生の動きとは相当に違う。瑛汰、この踊り、ちゃんと覚えてないな。
私も手足を動かさねばならない。が、憤然とした気分は治まらない。であれば、あの女どもの派手やかな動きを真似ることはない。ほとんど手足を動かさない瑛汰を真似ればいい。
しかし、俺ともあろうものが、何で人前で、チキンラーメン音頭を踊らねばならない? 世の中、どこか狂ってないか?
年少さんである瑛汰の出番、そしてその代理パパである私の出番は、そのすぐあとの競技であった。瑛汰と手をつないで出番を待つ。どうやら、クラス対抗のリレーであるらしい。
「お父さん方は、まずお子さんを抱っこしていただいて、マットのところまでジャンプを繰り返して進んでいただきます。マットに着いたらお子さんを降ろしていただき、2人で前転をしてください。終わったら、今度はお子さんを肩車していただいて、走ってもらいます。向こうに着いたら次の方にバトンを渡してください」
えっ、子供を抱いてジャンプ? 肩車して走る? 前転?
あのさあ、俺って61歳なんだけど。あくまで代理パパなんだけど。
代理じゃないパパは、30代、いってても40代初めでしょう。俺、最初っからハンディがあるんだけど。
瑛汰を抱いてジャンプを繰り返す。できるか?
前転。もう何十年もやってないぞ!
肩車をして走る? おい、年寄りをもっと労れ!
心の中でぶつくさ言いながら出番を待った。待っているうちに、なんじゃこりゃ、と思った。
若いパパさんたち、体力がない! おいおい、それがジャンプかよ!
お前、お腹が邪魔して前転できないじゃない!
走れよ、これ、クラス対抗戦だぞ!
若いパパさんたち、どうにも覇気がない。これが、いわゆる草食系、ってヤツか? それにしちゃあ、ちゃんと子供作ってるしなあ。ひょっとして、本当のパパは違うのか? 何かの本に、ほかの男の子供を自分の子供だと信じ込んで育てている父親が2割ほどいるって書いてあったが、お前たちが信じる者か? 母ちゃんの顔、見てみたいな。
こうなれば、我が世代の底力を見せつけるしかない。いいか、ふにゃふにゃパパども。草食系の腑抜けども。男が人前で競技をするとはこういうものだ。
瑛汰を抱き上げた。バトンを受け取る。跳ぶ、跳ぶ、跳ぶ……。全力で跳ぶ。より遠くまで跳ぶ。着地したら直ちに跳ぶ……。
マットまでたどり着いた。おい、瑛汰、前転だ!
私も前転した。そのまま起き上がる予定が、尻餅をついた。これが老いか?
肩車。瑛汰、行くぞ!
全力で駆けた。出場者中、最も速かった。
と、主観的にはいまでも信じている。
客観的なデータには関心がない。
私は瑛汰の代理パパとして、全力を尽くした。
「瑛汰、瑛汰とボスが一番速かったな!」
楽しむ会は11時半頃終わった。自宅に戻って、瑛汰に聞いた。
「瑛汰、チキンラーメンの踊り、瑛汰はあまり覚えてないようだね。先生の踊りと少し違ってたぞ」
瞬時考えた瑛汰は、堂々と答えた。
「あの踊り、なんか変なんだよ。瑛汰、好きじゃない」
瑛汰、お前は偉い! 幼稚園で、コマーシャルを押しつけられ、チキンラーメン消費の先兵にさせられようとしていることに、まだ3歳で気がついたか!
瑛汰、それでよい。それが正常な判断というものだ。先生と呼ばれる連中が押しつけてくるものを取捨選択する。それが知性だ。
素直に伸びてくれ!
「ボス、瑛汰とお昼ご飯を食べてから帰るんだよ」
瑛汰の命に従い、昼食をすませた。瑛汰は1人遊びを始めた。
「じゃあ、瑛汰、ボスは帰るぞ」
ダメ、と引き留められるかと思った。
「うん、バイバイ」
その場を動きもせず。視線も上げず、瑛汰は言った。
下におり、車に乗り込んだ。瑛汰は2階の居間で遊んでいる。妻と娘は玄関まで出てきた。瑛汰は出てこない。エンジンをかけた。さすがに、娘が焦りを見せた。
「瑛汰、瑛汰! ボス、帰るってよ。降りてきなさい。降りてきなさいってば!」
恐らく、渋々であろう。瑛汰が玄関に姿を見せた。私は車の窓を開けて手を振った。瑛汰は言った。
「バイバイ」
瑛汰は、クールな男である。
かくして、昨日午後3時から、再びひとり暮らしに戻った。