2010
09.03

2010年9月3日 義父、死す

らかす日誌

妻の父が亡くなった。大正9年3月生まれの90歳だから、まあ、大往生である。

夕方、風呂に入ってシャンプーをしていたら、突然妻がドアを開けた。こいつ、親しき仲にも礼儀あり、という言葉を知らないか? こちらが身に一糸もまとわずにいるところに乱入するのは、いくら妻とはいえ無礼ではないか!
と思って顔を向けると、何だか口をぱくぱくしている。耳を澄ますと、

「シャワーを止めて」

といっている。乱入するだけでは気が済まず、人の行動に命令までする気か? が、文句を言うにもシャワーを止めて雑音を消さねばならぬ。妻も、最近はやや耳が遠いのだ。
止めた。

「おじいちゃんが亡くなったんだって」

すぐに風呂から出た。
妻の話だと、1週間の予定で介護施設にショートステイしていて、そこで転んだのだという。

「打ち所が悪かったのではないか」

ということらしい。

歩かない人であった。散歩をしている姿は、ほとんど見たことがない。非鉄金属の回収が仕事で、いつも倉庫の片隅に座り込み、金属部品を分解していた。金属の種類別に分別するためである。

「歩かなかったから、歳をとって足元がおぼつかなくなった。だからこけちゃったんだろう」

そう妻にいって、さらに言葉を足した。

「お前もあまり歩けないから、注意しろよ」

妻が反応した。

「そうねえ。私もおじいちゃんと同じようにして死ぬのかもね。でも、早いほうがいいでしょう。次のお相手のこともあるし」

そこまで気を配るか?

「馬鹿野郎。もう少し早ければ何とかなったろうが、もう遅いわ。年金暮らしのオヤジに惚れるいい女なんているはずがないじゃないか」

話を戻す。義父は数年前、肝臓が急速に悪化、医者には

「いつ息が止まってもおかしくない」

といわれたまま、今日まで長らえた。よほど生命力が強かったのであろう。最近は、娘である妻を見ても、娘とは認識できなかったようで、惚けもかなり進んでいた。
惚けてこの世の憂さをすべて忘れたうえで急死する。理想的な最期かも知れない。

義父には、一度「らかす」に登場してもらった。どこからわいてでたか知れない尊大な田舎者の兄ちゃんに、娘をポイとくれた人物である。その決断がよかったかどうかには様々な見方があろう。だが、私はこの人の器量の大きさを感じた。

口数が少なく、離れて暮らしているときは、たまに訪れても、ほとんど言葉を交わすこともなく酒を酌み交わした。娘婿である私はやや気詰まりであった。口を開かぬまま、自分でお燗をしながら娘婿の猪口を充たし続けてくれた義父は、その時間を楽しんでいたのかどうか。ひょっとして、同じ気詰まりを感じていたのではないか。今となっては聞き出すすべもない。

義父の敷地内に家を建てて住めといわれたときは、

「俺は入り婿ではないぞ」

と逡巡した。それでも、まあ、それも親孝行のひとつであるか、と考えて決断した。30坪の土地に立つ我が家ができた。
義父がそういってくれなければ、九州の田舎から出てきた私が首都圏で1戸建ての家など持てなかったことだけは事実である。

訃報に接して、様々な思いが駆け巡る。冥福を祈る。

というわけで、明日朝、横浜に行く。葬式が済むまでは横浜に滞在することになろう。しばらく日誌の更新はできないが、ご容赦願いたい。