2010
09.08

2010年9月8日 再び独り

らかす日誌

横浜から昨夕戻った。横浜からのドライブは独り旅であった。再び独り暮らしが始まった。
ん、夫婦で義父の葬式に行ったんじゃなかったっけ? なのに、どうして戻りは独りなの?
もっともな疑問である。答えはおいおい出る。まずは、お読みいただきたい。

 

4日朝7時過ぎに桐生をたったのだが、計算違いは、この朝から起きた。

「熱がある」

寝室から出てきた妻がぼんやりした顔をしていった。確かに顔色が悪い。

「38.5度ある」

大人の38.5度はかなりの高熱である。

「どうする。お前は残るか?」

 「行く。横浜に着いたらまず医者に連れて行って。点滴を打ってくる」

確かに、妻にとって死んだのは実の父親だ。桐生に残るわけにもいくまい。
9時半過ぎに横浜に着いた。そのまま医者に行き、妻を降ろして我が家に着いた。さて、この日は何もやることはない。通夜は5日、葬儀・告別式は6日である。場所は近くの斎場だ。私は瑛汰と遊ぶしかない。

5日、朝から瑛汰、次女、生まれたばかりの璃子を連れてラゾーナに出かけた。瑛汰に公文式の時計を買うのが目的である。知的好奇心旺盛な瑛汰は、そろそろアナログ式の時計を読みたくなったらしい。一緒に啓樹の分も買い、次女はさいか屋で葬儀用の小物を買った。長男夫婦を拾って帰宅。

正午過ぎ、四日市から長女一家が到着した。長女は間もなく臨月である。「リン」の死に始まり、生と死が交錯するのが我が家の今年である。
体調と相談しながら、場合によっては旦那と啓樹だけをよこすようにいっておいた。中でも啓樹は必需品である。幼児期に肉親の死に接する機会はそれほど多くない。逃してはならない。
だが、次女の体調はそれなりによかったのだろう。全員でやってきた。

その日、通夜。酷暑の中、喪服を着、黒いネクタイを締める。暑い。4時過ぎに斎場から迎えの車が来る。

受付は長男の友人たちだった。

「えっ、友だちの爺さまの葬式を手伝うか?」

長男はよき友を持っているようだ。

型通り坊さんがやってきた。驚いたのは、事前にふりがなを振ったお経の冊子が配布されたことだ。坊さんが言った。

「皆様、お配りした冊子を見ながら、低い声でご唱和をお願いします」

えっ、仏式の葬儀で、参列者がお経を唱和する? 初めての経験だ。
確かに、キリスト教の葬儀に参列すると、必ず賛美歌を歌わされる。だが、仏式の葬儀で唱和させられたことなんかないぞ。いつも坊さんが1人で、聞いていても何をいってるか分からない呪文をモグモグと唱えるだけ。参列者は居眠りしながらひたすら時が過ぎ去るのを待つだけ。それが仏式じゃなかったの?
仏式の葬儀も革新の時代に入ったか。

だけど、お経って、いくらふりがなを振ってあっても、読んで意味が分からないんだよなあ。そんなものを唱える? 現代語訳の経を作らねばならない時代ではないか?

終わって、別室で食事。仕出しの食べ物は苦手である。何とか時間をやり過ごし、長女、次女の旦那を誘って「火の国」へ。「火の国」とは我が家の近くにある九州ラーメンの店である。主人が昨年急死、息子が跡を継いだが、味がかなり落ちた。そのためか、今月半ばで商売をやめるという。
まあ、それほど美味ではなくなったとはいえ、閉店の前に行くだけいっておこう。ほかにあてもないし。

「お前も来ないか?」

長男夫婦を誘った。ここはまだ子供がいないので、いつもペアで動く。

「いや、手伝ってくれた友だちと飲みに行くから」

ま、それはそうであろう。3人で「火の国」に陣取った。

10分ほどたっただろうか。その長男ご一行がドヤドヤと「火の国」になだれ込んできた。

「ほかに行くんじゃなかったのか?」

 「そのつもりだったんだけど、どうしても『火の国』に行きたいというヤツがいて」

通夜のあとの飲み会である。賑やかな方がいい。ま、この組み合わせでは、私の財布がスッと軽くなる結末は見えているが、それも私の役回りだろう。仕方ない。

翌6日は葬儀・告別式。

故人を偲び、涙を流すのに、あのような儀式はいらない。独り涙を流すもよし、やっと死んでくれたかと胸をなで下ろすのもよし、と私は思うのだが、世間の大多数はそうではない。死人が出れば、ひとかけらの疑問も抱かずに葬儀屋を呼び、儀式を執り行う。
してみると、葬儀とは決して故人のためにあるものではない。遺族のためにある。

まあ、それはいい。しかし、今回はかなり違和感を持った。葬儀屋は腕によりをかけて悲しみを演出する。それも、彼らの仕事のうちであろう。だが、今回の葬儀屋は、遺族に何度も遺体に手を触れさせるのである。

身体を拭け。足袋をはかせろ。わらじをつけろ。脚絆をまけ。手甲をつけさせろ。数珠を持たせろ。遺品を棺に入れろ。花で棺を埋め尽くせ。

そのたびに遺族は棺に近寄り、足を持ち上げ、手を持ち上げ、作業をする。遺体の冷たさは、正直、それほど心地良いものではない。

それも、悲しみの演出法ではあろう。が、指示に従って動くうちに、悲しみを演出するために、これでもか、これでもか、といわんばかりに遺体を使うやり方に、違和感を覚えだした。
それって、個人を敬っているのだろうか? 利用しているのであろうか?

葬儀とは、何故これほどまでに悲しみが演出されねばならいのだろう?
中国や韓国には、プロの「泣き女」がいると、本で読んだことがある。金をもらって、葬儀の最中に大声で泣く。残された我々はこれほどまでに嘆き悲しんでいるのです、と周囲にアピールするために金を使う。

違和感を覚える。
悲しみとは、独りだけで抱くものだ。涙は同じであっても、涙に込められている思いはひとりひとり違う。自分の悲しみを周りに知ってもらう必要はない。自分だけで悲しめばよい。

日本の葬儀で流される涙は、本当にそれぞれの心の内からわき上がってきたものなのか? 悲しみを演出する儀式で促されて出てきたものなのか? 現代人とは、演出がなければ涙が流せない人びとなのか?

悲しみとは、もっと個人的なものであって欲しい。狂おしいほどの悲しみを1人で抱きしめながら、涙にむせて欲しい。

という私にしてからが、父方の祖母の葬儀では泣かされてしまった過去を持っているが……。

焼き場に同行。納棺をすませて戻る。精進落としの宴。これも仕出しものであれば、あまり食べる気がしない。
というわけで、我がファミリーは午後6時半に、川崎の「松の樹」に予約を取った。4家族だから、大人8人、子供2.5人である。6時過ぎに自宅を出た。運転手は長女と次女。

「えっ」

と臨月が近い長女が声を出したのは、「松の樹」近くの駐車場でのことだった。

「出血が始まった。予定日までまだ1ヶ月半以上あるのに」

四日市の掛かり付けの産院に電話をした長女は、旦那と一緒に、とりあえず我が家へとんぼ返りだ。とにかく医者に行け、というのが産院の指示だったらしい。

が、昨今、掛かり付けでない産院は、こうした患者を嫌う。案の定、電話をした産院にすべて断られた長女は、救急車を呼んで受け入れてくれる産院を探してもらい、横浜労災病院に向かった。子宮口が開き始めているとのこと。
その場で入院が決まった。
まず、薬で抑えてみる。それがうまくいけば、四日市に戻ってもらう。うまくいかなかったら、ここで産むしかない。
ということらしい。
ために、妻は、

「私、残るわ」

と宣言した。

当初は、7日に2人で桐生に戻る予定だった。が、緊急事態とあれば致し方ない。

「分かった。場合によっては週末に迎えに来る」

私は、7日には桐生に戻らねばならない。

翌7日朝。私の寝室である1階から2階の居間に上がっていった。妻がいない。

「お母さん、どうした?」

次女に聞いた。

「また熱が出たんだって」

あれまあ。
そういえば、先週末は、私独りで横浜に戻る予定だった。1階の部屋が改装中で、改装業者がどうしても来てくれという。妻を、

「一緒に行くか?」

と誘ったが、

「風邪気味だから行かない。桐生で静養している」

との返事だった。それが、義父の急死で横浜に行くことになり、初日は点滴を打って症状を抑えていたが、葬儀のバタバタで疲れがたまったか。

再び発熱した妻を朝から医者に送った。再び点滴である。

「お前がいても足手まといになるだけじゃないのか? 点滴で症状が落ち着いたら桐生に帰るか?」

と聞いたが、どうしても残ると言い張る。次女に

「お母さんを残していくと足手まといにならないか?」

と聞くと、

「どちらでもいい」

との返事。このような次第で、昨日午後、独り桐生に戻った。

昨夜は、ヤオコーで買った弁当、総菜と、キャベツ、ピーマンの炒め物(最近、気に入っている)で夕食。今朝は茶漬けにバナナ。
急な独り暮らしは準備が何もできていない。リズムに乗せるには、しばらく時間がかかる。よって、今日は、幸い誘う人があって夕食も外でする。

とにかく、我が一族は、あちらもこちらも緊急事態である。

まだ横浜には啓樹が残っている。母が入院したためだ。四日市に戻れば幼稚園に通うのだが、仕事がある父と2人で暮らすわけにも行くまい。

長女の様子次第だが、今週末も横浜に行って子供の遊び相手をすることになりそうだ。
ふっ、往復300km。

ガンバロー!! と自分を励ますしかない。