2010
12.20

2010年12月20日 腰痛詳報・その1

らかす日誌

あなたは、私がアメリカの歓楽都市・ラスベガスで味わった苦痛をご記憶だろうか?
えっ、記憶にない?
えっ、お読みでない?

そのような方々は、まずこちらとことこちらをお読みいただきたい。

思い出したいただけただろうか?
お読みいただけたであろうか?

話はここから始まる。
というのは、やや大げさか、という感がないでもない。ラスベガスの苦しみを10だとすれば、今回はせいぜい2ないし3である。それでも、腰痛の苦しみを是非ご理解いただきたいと思い、ラスベガスの話を冒頭に振った。
以下は、そういう前提でお読みいただきたい。

 

いま思えば、今回の腰の不具合は4週間ほど前に種がまかれた。
妻女が、恐らく私を心地よい眠りに誘おうという善意からだと信じるが、生協でマットレスを買った。突然届いたマットレスを前に、

「俺、マットレスは苦手なんだよな。寝床が柔らかいと腰に来るんだ」

と私はご注意申し上げた。しかし、善意の固まりとなった妻女の耳には届かない。

「これ、固いから大丈夫だって」

かくして、私はその夜から、このマットレスと、以前太田のジョイフルホンダで買った低反発マットレスを重ねた寝床で寝始める。
いま思えば、それが始まりだった。

どのような寝床であれ、5日や1週間で身体に変調がでるものではない。初日は、前日と同じ気分で目覚めることができるし、翌日だって前日と同じように目が覚める。日々少量ずつの変化はなかなか感じ取るとることができない。毎日鏡を見て髭を剃っている私も、日々鏡の前で化粧に時間を費やす女性も、己の老いになかなか気がつかないのはそのためである。
だが、例え気がつかなくても、変化は着実に蓄積していく。

元々私は、讃岐うどんではない。腰はそれほど強くないのである。ラスベガスでのような惨事は数少ないとしても、いつでも惨事に見舞われる資質だけは持ち合わせている。
だから、腰にには気をつけてはいる。

変調が気になり出したのは、いま思い出せば12月に入ったころからであった。横浜に住む次女一家全滅の報を受けて救済に向かった6日、ドライバーズシートに収まった我が腰は、救難信号を出し続けていた。ピリピリと痛むのだ。

「これはいかん」

とは思った。だが、ことは急を要する。とにかく、次女一家が全滅なのである。私の腰がどうのこうのといっている場合ではない。
そんな腰を抱えての横浜での様子は、すでに書いた。ただ、あの場で書き忘れたことがある。
あの日、私は近くの接骨院に行った。瑛汰を病院に連れて行ったあと、夕方のことである。

「背中全体がガチガチですね。しばらく通われませんか?」

などといわれながら、30分ほどマッサージを受けた。受けたら腰が楽になった。

「これなら大過あるまい」

翌7日は、そう思いながら一人桐生に戻った。一人暮らしが始まった。

桐生に戻り、当面は外食でしのごうと決めた。
妻女は風邪で倒れた次女一家の面倒を見に行っている。ということは、横浜滞在はそれほど長引くことはない、というのが1つの理由である。
今ひとつの理由は、キッチンの秩序が妻女の体系になっていたからである。常日頃、キッチンに立つのは妻女である。だから、何を買い置きをし、何をどこに収納し、という体系が妻女の価値観に従うことは仕方がない。だが、我が妻女とはいえ、その体系の中で私が自炊をするのは困難である。自炊をするためにはキッチンの体系を私型に変更せねばならない。そうしないと、必要なときに必要なものを引き出すことができない。
私が自炊をするためには、私の体系と作らねばならない。その体系は時間のある休日に作るしかないのである。火曜日から始まった一人ぐらいでは、その体系の構築はできない。

朝食はコンビニかスーパーで買う。あるいは、前日の夜に訪れた店でおにぎりを作ってもらう。
昼は外食。
夜は飲みに出る。あるいは、スーパーで弁当と総菜を買ってくる。

こうして週末を迎えた。11日である。その頃には戻ってくると思っていた妻女は、相変わらず横浜にいる。次女がなかなか回復しない。
であれば、中期戦だ。そろそろ自炊を始めねばなるまい。
冷蔵庫の中身を確認し、3日間の夜のレシピを立て、買い出しに行った。自炊生活が始まった。

いや、それはどうでもよい。自炊したから腰痛が悪化したわけではない。

「これはいかん」

横浜でマッサージをして快方に向かっていたはずの腰が、主人であるはずの私に牙をむき始めたのは13日の月曜日だった。13日の金曜日ではないというのに、いったん椅子に座ると立つのが辛い。車への乗り降りも腰をかばいながらでないとできない。

「早めに手を打たないと」

そう考えた私は、数回お世話になったマッサージ師に電話を入れた。50歳代の女性である。

「あの人は、掌から気が出るんですよ」

こちらで知り合った人にそんな推薦を受けた。
掌から気が出る? 気、なんて科学的には全く実証されていないぜ。そんなもんが人間の身体から出るか? それが離れたところに届くためには、君、どれくらいのエネルギーが必要か計算したことがあるのか?
これを、わかりやる苦言い直すとこうなる。
お前、アホちゃうか! 

そんな憎まれ口をききながら、とりあえず試してみたのは昨夏だったろうか。桐生に来ていってみた接骨医、整体師、どれもいまいちだったからである。
1回1時間、5000円。高い。高いが、丁寧にマッサージしてくれる。前橋の先生について学んだのだという。気が出ているかどうかはともかく、終わって身体がすっきりしたのは確かだった。以来、我慢できなくなると、

「5000円。もったいないけど、この辛さから逃げるには……」

と清水の舞台から飛び降りる覚悟で時折訪れた。そのたびに、身体が楽になった。
だから、今回も頼るのは、あのゴッドハンドしかない。

「という訳なんだけど、いつがあいてる?」

という私の電話に、ゴッドハンドを持つ彼女は答えた。

「うーんと、明日火曜日の5時半か、水曜日だったら午後1時なら大丈夫」

午後5時半? そんな時間にマッサージしたら、夕食の時間に響く。何しろ、自炊を始めたのである。1時間マッサージしてもらって家に戻ったら、もう7時ではないか。
それは避けたい。

「水曜日がいいな。でも、どうしようもなかったら明日行く。その時は電話を入れるから」

そういって電話を切った。この時点では、私は水曜日の午後1時に行こうと決めていた。なあに、いかに傷んでいるとはいえ、それまでは私の腰も頑張ってくれるはずだ。
どんな場合でも、私の主旋律は楽観論である。

 「いかん、これ、明日まで持たんわ」

火曜日、我が腰は前日からさらに悪化していた。
椅子に座っているのが辛い。腰で身体を支えようとすると、痛みが走る。それでは、と立ち上がれば、腰が伸びない。伸びねば歩けない。
机に置いた手で身体を支えながら、ん! と腰を伸ばす。また痛みが走る。顔をしかめながら耐える。そしてようやく歩き始める。
これでは暮らせない。

その日の仕事を早々と切り上げて、午後4時半、やっぱり今日行くと伝えようと電話をした。

「もしもし、大道ですが」

 「はあ、どちらさん?」

ゴッドハンドの持ち主の声ではない。年老いた男性の声である。

「大道ですが」

 「はあ? 誰ですか?」

そういえば、ゴッドハンド、両親と同居していたな。オヤジさん、耳が遠いんだっけ……。

「ダ・イ・ド・ウです」

 「坂本さん?」

いかん。俺、今日、マッサージしてもらえるのか?

「ああ、すみません」

声が女性に変わった。が、ゴッドハンドではない。お母さんらしい。ということはあれか、耳の遠いおじいさんの奥さんか。
その奥さんがいった。

「娘は出かけてるんですわ」

えっ、だって、5時半だったらマッサージしてくれるっていってたじゃない!

「ああ、そうだったんですか。それは申し訳ありません。じゃあ、娘に連絡を取ってみますので」

と、電話は切れた。ン? 電話が切れる?
ねえ、お母さん、あなた、娘さんと連絡を取って、その結果をどうやって私に知らせるつもり? だって、あなた、私の連絡先知らないでしょ……。

仕方なく、時間を見計らって再度電話をした。悪いことに、またお父さんが出た。

「はあ?」

 「はあ?」

が繰り返された。繰り返したあとで、お母さんが出てくれた。
ねえ、耳が遠くて電話の声が聞こえない人が最初に受話器を取ってどうするの?

 「はあ、娘はすぐに帰ってくるといっておりましたので」

というわけで、すぐに車で駆けつけた。
ゴッドハンドは、1時間以上にわたって丁寧にマッサージしてくれた。
立ち上がると、身体が軽くなっていた。小錦のように重かった腰も、舞の海程度には軽くなっている。

5000円払って

「お大事に!」

と言う声を背に、ゴッドハンドの家を出た。
車のドアを開け、運転席に乗り込むのも楽だった。
もう6時半である。自分で夕食を作る時間はない。その足でヤオコーに回り、弁当と総菜を買った。私はマカロニサラダが好きである。それも忘れずに買った。
隣のマツモトキヨシで、ホッカイロを買った。腰を温めろ、というゴッドハンドのアドバイスを実行するためである。

これで、今回の腰痛騒動は一段落するはずだった。