2012
03.17

2012年3月17日 吉本隆明

らかす日誌

吉本隆明さんが亡くなった。
まあ、無駄な奴が沢山長生きしているのに、どうしてあなたがこんなに早く、と思わぬでもない。
が、人はいずれ死ぬ。私も、これをお読みになっているあなたも、死を避けるすべはない。違いは、多少早いか、遅いかだけである。人生、そこだけは平等なのだ。
ほかは、ほとんど不平等に出来上がっているのが人生なのに、どうしてそこだけ平等なのか? 不平を言いたくもなるが、言ったところでこの悪平等が改まるわけでもない。受け入れるしかない。

私が吉本さんに始めて触れたのは、大学生の時代である。あまり褒められた話ではないが、大学の生協にうずたかく積んであり、

 「ああ、みんなこんな本を読んでいるのか」

と購入した。著作集を1冊ずつ買い求めた記憶がある。
まっとうな読者ではなかった。いや、まっとうな読者になろうと努力はしたのだが、なにせ難しく、呆然とした記憶の方が多い。「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」なんて、てんで歯が立たなかった。

「確かに日本語で書いてあるんだが、私は日本人で日本語で育ってきたのだが、これ、何を書いてあるの?」

という体たらくであった。

その中で、明瞭に記憶に残っているのが「マチウ書試論」「転向論」である。著作集の1冊で読んだと記憶する。
この2篇だけは、スッと頭にしみ込んだ。いや、しみ込んだはずだが、さて、どんなことが書かれていたのか、今となっては記憶が定かではない。
組織と人間、建前としての善と悪、だが、善といわれていたものは本当に善だったのか? そんなことが論じてあったように思う。

そう、「転向論」は、戦争中に収監された共産党幹部の「非転向」、つまり権力の弾圧にもめげず、思想を貫いた偉人としてたたえられていた連中の行動を、そんなもの、まったく意味がねえ、と切って捨てたものだった。目からウロコが落ちる気がした。恐らく、私が世の大勢と異なった思考をする変わり者であるとすれば、その出発点はこのあたりにある。

しかし、その出発点が記憶に残っていないとは情けないことだ。我が家にあったはずの「マチウ書試論」「転向論」は、誰かが持っていって返却しなかったらしく、長らく書棚にない。
そこで今日、訃報に接して、「マチウ書試論・転向論」 (講談社文芸文庫)を発注した。読み返してみるつもりである。

 

朝日新聞が、読売ジャイアンツの金権体質をたたいている。球界で申し合わせた契約金の最高標準額を大きく超える金で選手を引っ張っていた事実が明らかになった。

「最高標準額は上限額ではない」

というのが巨人軍の反論だが、最高標準額が1億5000万円であるのに、10億円も支払って獲得した選手がいたというから、さて、巨人軍の反論が受け入れられるかどうか。
私は、盗人猛々しい、としか思わないが、巨人の是非を決めるのは私ではない。皆さんである。

昨日、酒場でたまたま隣り合わせになった読売新聞の記者は

「朝日新聞に頑張って欲しい」

と言っていた。このあたりが常識、良識なのかもしれない。
と思いつつも、

「ねえ、君。巨人の問題は昨日今日ではないのよ。江川の問題もあったし、そもそも、日本のプロ野球をつまらなくしたのは巨人、それも川上だよ。いくら確実に勝つためとはいえ、クリーンアップの中軸打者にバントさせる野球はあの監督からだ。観客はプロらしいプレー、対決を見たいんだろ? 4番バッターの送りバントなんて見たくないだろ? 悪いことに、その巨人が勝ち続けたものだから、そんな野球スタイルが球界全体に広がっちゃった。巨人にはまず、その責任を自覚してもらわなきゃいかん」

と説教してしまうのは、私がオヤジになったからか?

 

にしても、民主党の岡田幹事長、何をやっても様にならない男だなあ。自民党に連立を働きかけてはね飛ばされたんだって?
消費税増税をしたいがための連立構想。彼の考える政治は、どうもチマチマしていていかん。こんなんがおばちゃん連中に人気があるとは、日本のおばちゃん連中の程度が知れる。私、おばさんは嫌いである。

はっ、あまりいいことがない今日この頃である。腰も痛いし。