04.10
2013年4月10日 数学
啓樹の、瑛汰の、璃子の、嵩悟のお手本になろうと、中学数学の復習を始めたことはすでにご報告した。テキストに使っている「大人のための やりなおし中学数学 一日一題、書き込み式」(光文社新書)は思いのほか易しく、全239ページのうち、171ページまで進んだ。手応えがないまま。方程式や比例を終え、次はグラフに入るところである。
このテキスト用のノートをつくり、そのノートで1題ずつ問題を解いていく。中学時代は何かに追われるように問題に向かった(というほど勉強した記憶はないが……)が、いまは気楽なものだ。
誰かが採点するわけではない。入学試験が待ち構えているわけでもない。純粋に、問題を解く行為だけに没頭する。
全く制約も目的もない中での知的遊戯は、快楽そのものである。
と書きながら、しかし、
「老化度を測る物差しにもなるのではないか」
という思いが年頭を去らない。
計算する速度が、いいようもないほど遅くなった。遅くなるだけならまだしも、せっかく計算したのに、計算間違いが頻出する。
「えーっと、23足す38ね。えーっと、3足す8は11だから1繰り上がって、2足す3は5、それに1足して6。ということは61」
なんてことを繰り返すのだが、
「待てよ。全盛期なら、二つの数字を見ただけで『61』って答えが出てたんじゃないか?」
と昔を懐かしむのである。
それだけならまだいい。
「ん? えーっと、繰り上がりは1だっけ。だったら、10の位は1足す2足す3で、えーっと、6でよかったっけな?」
などとすったもんだするのである。挙げ句、1足す2足す3が7になったりする。
無論、こうした計算から遠ざかっていることもあるだろう。いまは、計算はすべて電卓任せである。
「えーっと、今月のタクシー代は、1260円、2120円、1080円……」
電卓は、キーを押し間違えないかぎり、必ず正しい演算結果を表示する。そう、自分の頭で、
「2足す7足す6足す8は23だから、3が残って繰り上がりが2で……」
などという知的作業はやらない。この部分をすべて電卓が成り代わってやってくれる。そんな生活がもう数十年続いているから、私の頭脳がどれほど優秀にできていようと、日頃使わない機能は衰えて行くに決まっている。天才も、自然淘汰の法則には逆らえないのである。
その能力は失いつつあるが、でも、代わって獲得した能力だってたくさんあるだろ? 例えば、議論して絶対に言い負かされないノウハウとか、狙った女は必ず口説き落とすノウハウとか……。
と自分を慰めつつも、でも、ある恐れに捉えられることもあるのだ。
「やっぱ、俺の脳、老化し始めてる?」
この勢いで行けば、いま使っているテキストはあと数日でやり終える。さて、その後はどうしよう? と今日考えた。
結論が出た。もう少し高度な問題集を買ってこよう。
明日は、我が妻女殿が4週に1度、前橋日赤に行く定期検診日である。それに運転手として付き添う私は、健診の間は暇で、いつも前橋のけやきウォークで時間をつぶす。紀伊国屋書店をぶらつくのがいつもの行動パターンである。
「よし、明日は紀伊国屋で、Z会の中学数学問題集か参考書を買ってこよう。ついでに、高校数学、中学と高校の英語も買ってみるか?」
老人の暇つぶし、と見る向きもあろう。
だが、である。向学心とはそのようなものなのだ。火がつくまでは何処にあるのかわからない。しかし、一度火がつけば、次々に燃え広がるのである。人類が、向学心を燃え上がらせた先人たちの恩恵を、数え切れないほど被っていることを忘れてはならない。
学ぶ歓び、知る歓び。啓樹も瑛汰も璃子も嵩悟も、その歓びを知って欲しい。
かくして、私の年寄りの冷や水は、まずギターから始まり、中学数学に広がった。これが英語までマスターできたら、さて、これから麻布高校を狙おうか、それとも、開成高校にチャレンジしようか。やっぱ、灘高校がいいか?
60ウン歳の高校受験生。
メディアは取材に来るかな?