2014
07.22

2014年7月22日 3億5000万円!?

らかす日誌

朝日新聞の夕刊を見て、驚愕した。
何と、あの東京都知事、禿げの舛添要一が3億5000万円近い資産を持っているという。

3億50000万円!?

いやいや、ここで金額の巨大さに度肝を抜かれているだけでは、そんじょそこいらの庶民と何も変わらぬ。

「私は庶民ではない。並外れた知性を備えた市井人である」

と自負する私は、度肝を抜かれながら頭を回転させ始めた。
もっとも、晩酌をしながらの夕刊瞥見である。通常に比べて頭の回転が鈍っていることは認めざるを得ない。

で、である。
最初に考えたのは、

「こいつ、どこからそんな金を持ってきたんだろ?」

であった。

サラリーマンの平均生涯所得が、大学卒で3億円弱といわれる。
これは生涯所得であって、一生かかってできる貯蓄額ではない。この生涯所得から食って飲んで着て住んで、さらに子どもを育てる。いまの舛添と同じ66歳になったとき、さて、どれだけの資産を残せるか?
私、65歳、いまある資産は2000万円少々の貯蓄と、自宅(もっとも、土地は我が妻女殿が、その父親から相続されたものである)、それに、金目の物といえばクリスキットが2セットに、車がBMW。こいつはすでに9年目に突入している。貨幣価値としてどの程度が残っているのだろう。そしてMartinのギター程度だ。

という世の中での3億5000万円である。並大抵のことで築くことができる資産ではない。この禿げ、そんなに金を稼ぐ仕事をしてたっけ?

いやいや、この禿げ、元々は学者である。国際大学の教授になって、間もなく政治家に転身する。経歴を見れば、彼がやって来た仕事はこの2つである。

学者って、そんなに儲かるか?

確かに、かつては

末は博士か大臣か

というのが、庶民が思い描く出世街道のお決まりであった。つまり、かつての価値観からすれば、この禿は教授になって大臣にもなった。人もうらやむ出世街道をひた走った立志伝中の人である。

だが、学者は金を残せるか?

現実を見ると、学者の所得はそれほど多くない。学者で金を残そうとすれば、国や企業からの研究費をちょろまかすしかないが、この禿、専門は確か国際政治学である。たいした研究費が出るはずはない。

では、政治家で資産を築いたか?
ふむ、これはあり得ることである。が、だ。禿がうまいこと政治家に転身できたのは2001年のことだ。それから13年しか過ぎていない。この間に3億5000万円の金を作ったとすると、1年に2700万円を貯め込まねばならぬ。
国会議員の俸給は、確か年間2000万円強である。この金から税金を払い、飲んで食って住んで着て、さらに女に金も使わねばならぬ。とすると、2700万円も残るはずがないのは、誰が計算しても結果は同じである。

もしもし禿よ、禿さんよ。あんたどこから金持ってきた?

と考えてきて、

「きっとこれに違いない」

と行き着いたのは、

「講演料」

であった。

舛添要一を学者として認識している人が、果たしてどれほどいるか。そういえば政治家だったな、と記憶している人はそこそこいるかも知れぬ。
だが、私も忘れていたが、多くの人が忘れているのは

舛添要一=タレント

であったことだ。禿は、ある時までは学者として、その後は政治家として、しばしばテレビに出演した。

「ほほう、テレビの出演料で稼いだか」

と思うのは早計である。
テレビ局に勤める知人の話では、学者や政治家の出演料は極めて安い。2時間番組に出ずっぱりで数万円というのが相場だという。
ま、政治家がそれでもテレビに出たがるのは分からないでもない。何よりも顔が売れるのだ。選挙区の有権者に

「先生、この前テレビに出てましたね」

といってもらえるようになったら、選挙は安泰である。何しろ、オラたちが担ぐ先生は、テレビに出る有名人である。落選させてはいけない。落選させてしまっては、全国の視聴者に申し訳が立たないではないか。

では、学者は何故にテレビ画面に登場するのか。
有名になるためである。私はテレビ局が出演を求めてくる有名学者なのだという評価を得るためである。
いや、有名になったところで、それでテレビの出演料が跳ね上がるわけではない。エリック・クラプトンのように神がかりのギターを聞かせられるわけでもなく、かつてのマリリン・モンローのように肉感的な肢体を誇示できるわけでもない。ほんとかどうか疑わしい「自説」を説くだけである。それで金が取れるはずがない。

とろが、である。
地方には、

「落語家とは笑点に出る人たち」

と信じ込んで疑わぬ、素朴な、だが無知である善男善女が掃いて捨てるが如くいる。同じように、

「テレビに出る学者は世に優れた見識を持つ人々である」

と信じ込んでい疑わぬ自称有力者が跋扈しているのである。だから、地方の様々な団体が、この学者たちを公演に招く。事務局としてみれば、講師がどんな話をするかより、どんな講師を招く蛾が重要なのだ。いい話をするが無名の学者では、聴衆から

「俺、あんな教授なんて知らん。あんな奴を招くとは、金の無駄遣いではないか」

というクレームが出かねない。が、テレビでよく顔を見る学者先生なら、そのようなクレームが出ようはずがない。出たところで、

「いやだなあ。この先生、最近テレビで引っ張りだこなんですよ。それを無理をお願いして来ていただいたんです」

といっておけば済む。

こうして、テレビで馬鹿面を曝す学者、有識者(とは、なんぞや?)の講演料は跳ね上がる一方である。1講演100万円、200万円はざら。しかも、聴衆は行く先々で違うから、講師は何処に行っても同じ話を繰り返していれば済む。全く同じくすぐりを繰り返せば、その都度聴衆は律儀に笑ってくれる。それで100万円の束が懐に転がり込み、しかも講演後は

「お疲れ様でした」

と酒付き(ひょっとしたら女付き?)のお座敷が待っているとあれば、こりゃあもう濡れ手に粟の世界である。

という一般情勢を踏まえれば、

「禿は、講演料で稼いだに違いない」

という私の妬み半分の憶測も、そこそこ信憑性はあるというものだ。
禿、違ってる?


本日、先頃遊びに来たI君から、製作を依頼していたDACが届いた。
事前に、パソコン(iMac)の設定の仕方、接続の仕方を丁寧に解説したメールが送られてきたから、つないだらすぐに音が出た。余分なものが一切まとわりつかないすっきりした音である。
わが家のNASに入っている音楽は、バックアップのため、すべてiMacに入っている。このファイルを再生するのだが、こうして日誌を書いている間も、すぐそばで美しい音で音楽が再生されるのは、至福の環境である。

製作コストは、付属の光ケーブルを含めて1万1600円。すぐにI君の口座に振り込んだのはいうまでもない。

しかし、これはコストだけである。組み立ててくれた彼の労力は全く反映されていない。
と思い、マリー・ポールのレアチーズ・ケーキと生チョコケーキを送った。彼を支えるご家族に、桐生の味を楽しんでいただくためである。

I君はそのうち遊びに来てくれるらしい。
I君への感謝はその時に表したい。

いまは、

(I Got No Kick Against) Modern Jazz

が心地よい音量で部屋に流れている。