11.30
2014年11月30日 愛車の帰還
昨夕、愛車が無事戻ってきた。
昼過ぎ、修理工場から電話があった。やっと修理ができたか、と喜んだのだが、
「いやあ。パーツ屋がとぼけててさ。パーツが届くのが遅れる、ってんだ。いったい何をやってんだか。しかし、部品が来ないことにはこっちは手も足も出ないし、申し訳ないけど、夕方まで待ってもらえる?」
全くもって許し難い部品屋である。部品屋であるからには、頼まれた部品を間違いなく、速やかの届けるのが仕事であるはずなのに、1度目は部品を間違え、2度目は出荷を遅らせる。
「しばき倒してやって!」
私ならずとも、そういいたくなるはずである。
で、仕方なく夕方引き取りに行った。
「これだったんだね」
4組の点火コイルとプラグを示された。
「プラグは大丈夫だったんだけど、このコイルがね。1本だけなんだけど」
プラグとは、エンジンのシリンダーの中にあり、ピストンで圧縮されたガソリン+空気に火花を飛ばす部品である。電極が2つあり、その間で放電が起きる。つまり火花が飛ぶわけで、圧縮されたガソリン+空気はこれで点火され、爆発してピストンを押し下げる。
プラグの電極間で放電を起こすには、1万-3万Vの高電圧が必要である。そりゃあそうだ。100V程度で放電が起きていたら家中で火花が散って、危なくって電気なんか使えやしない。
で、その高圧電流を作るのがコイルの役目である。
「このコイルが、途中で電気が抜けてたのよ。だからプラグマで電気が行かずに点火してなかったんだね」
ほほう、そのような不具合であったか。
「どこから抜けてたの?」
「いや、このあたりなんだけどね」
「どこ?」
コイルと呼ばれるパーツは、見たところゴムのようなカバーで覆われている。電気が洩れる、つまり漏電しているのなら、どこかにカバーの破れ目があってもいいようなものだが、そんなものは何処にもない。そもそも、不具合が起きたというコイルと、正常に働いていたコイルは、目で見ても違いが分からない。
しかし、自然が起こす放電である雷に打たれれば、おおむね大きな穴があく。
今読んでいる
「音楽嗜好症 脳神経科医と音楽に憑かれた人々」(オリヴァー・サックス著、早川書房)
には、公衆電話ボックスで落雷にうたれたのをきっかけに、突然音楽を聴きたくて、演奏したくてたまらなくなり、しかも四六時中頭の中で音楽が鳴り響くようになった人の話が出て来る。
あ、それは関係ないか。
「いや、このあたりなんだわ」
なんでも、カバーに破れができなくても、漏電は起きるのだという。何だか、分かったような分からないような話である。
「うちの母ちゃんがさ、輸入車だから故障するんじゃないか、ってうるさいのよ。そうなのかな? それに、国産車だとプラグだけ、コイルだけ代える、なんてできるのかな。そしたら、修理費もずっと安いと思うんだけど」
「いや、プラグもコイルも消耗品だから、輸入車も国産車も一緒だわね。それに、エンジンをコンピューターで制御するようになってからは、プラグとコイルを一体にするのは国産車も同じだから、まあ、結局同じ事よ。値段もそんなに違いはしない」
ちなみに、プラグとコイルで1組1万2500円程度。修理費全体では7万2000円であった。
そうか、これで妻殿に反論する材料はできた、っと。
「でさ、くどいようだけど、劣化する部品はもうないかね? まあ、劣化部品をすべて取り替えれば新品同様になるわけだから、そうなるまでにあとどれくらいの出費が必要か、心構えをしようと思ってね」
「うーん」
修理してくれたおじさんは考えた。
「あとは、ブレーキ周りと……」
「うん、それは仕方ないよね」
「それから、ラジエターかな」
「ラジエター?」
「いまは結構プラスチック部品が多くてね。これも経年劣化するわなあ」
「パイプの継ぎ手は代えたよね」
「冷却水を貯めるタンクも樹脂製になってきたから、劣化するんだわ」
「はあ、取り替えるといくらぐらい?」
「そうねえ、国産で4万円ぐらいかな」
「とすると、俺の車がやられたら、今日と同じぐらいの金がかかるのか」
「でもね、BMWは結構丈夫でね。しばらくは心配しなくてもいいんじゃないかな」
「へーっ、そうなんだ」
「うちではいっぱい修理するけど、目立って弱いのはホンダだね。BMWはあまりやったことがない」
エンジンの点火系統がまっさらになった愛車をかけって帰宅した。
女房と畳は新しい方がいい
ということわざに違和感は全くないが、でも、車の点火系統も新しい方がいいのではないか。なんだか、エンジンの回転がすっかり一新したような気がした。
そりゃあそうである。エンジンのシリンダーは、いかに設計、加工を精密にしようとも、新しいうちはピストンリングとの間にいくらかの引っかかりがあるはずである。だから、新車は慣らし運転をする。慣らし運転とは、行ってみればバリとりである。
しかし、我が愛車はいまや8万7000㎞走ったベテランである。シリンダー、ピストンリングに当初あったいくらかの凸凹はすっかり綺麗になり、いまや琴瑟相和しておる。しかし、琴瑟相和す度合いが深まるのと反比例して、プラグから注ぎ込まれるエネルギーは弱まっていたはずだ。
それが、琴瑟相和したところに、新婚時代と同じエネルギーが注ぎ込まれる。調子よくならないはずがないではないか?
まあ、人間ではこのように物事が前に前にと進むことはほとんどないが。
今日の「軍師勘兵衛」を見ながら、思わず
「バカタレ!」
と口走ってしまった。
シーンは、勘兵衛がいよいよ天下とりに打って出るところである。
間近に迫った関ヶ原の戦いで東軍も西軍も疲弊する。その間に我々はまず九州を平定し、関ヶ原に軍を送って空っぽになっている毛利を切り従え……。
と勘兵衛が構想を話し始めると、
「そこで我らが故郷である姫路まで上って東西の戦いの帰趨を見極める。いずれが勝とうと、戦に疲れ切っているはず。そこに攻めかかって……」
と部下どもが引き取る。
おいおい、いくら30年連れ添った主従であろうと、これまで秘めてきた戦略があっさりと見透かされる。それってありか?
そんなにあっさりと見抜かれるような戦略であれば、敵も当然見抜いているはずである。なかでも、狸オヤジとまでいわれた徳川家康が、見抜かぬはずがない。
その程度の薄っぺらな戦略で天下を取るってか?
ありえないだろう!
ま、シナリオライターは、主従の深い関係を象徴させたつもりだろうが、バカも休み休みにするがよい。
あくまで史実通りに描けとはいわぬ。だが、勘兵衛を、天下を取れる器量と実力、戦略を持った偉人として描き出すのなら、このような細部には充分目配りをしなければならない。
私でも思いつくような作戦でとれるものではないのだよ、天下とは。
ということで、明日から師走。今年もあと1ヶ月である。