09.02
2015年9月2日 そして
東京五輪エンブレム問題の続きである。
今朝の朝日新聞で、漫画家のやくみつるさんがコメントしていたのをお読みになったろうか?
彼は、こう言っていた。
「そもそも、1964年五輪のマークがあるのに、なぜ作り直す必要があるのか。明快で荘厳。あれを超えるデザインはない。2度目の五輪開催都市として、先人への尊敬の念を持ち、理念を継承していくことが大切ではないか」
このコメントの見出しは「責任の所在検証を」というとぼけたものだったが、発言の中身は、さすがの見識である。それともやくさん、昨日のNHKニュースに出たオッちゃんのコメントを見ていたのかな?
私には、
「あれを超えるデザインはない」
と言い切るほどのデザインに対する判断力はないが、しかし、心から賛同できる提言である。
が、社会面の片隅で、トンチンカンな見出しがついたコメントのままでは、当局に対する影響力はなきに等しいであろう。NHKのニュースのオッちゃんのコメントがあり、それに深く賛同した「らかす」筆者、つまりこの大道の後押しがあっても、それは変わらない。
だから、願う。
明日の天声人語で、64年エンブレムの再利用を大々的に推奨してくれないものだろうか?
いや、朝日新聞だけでなく、読売も毎日も日経も、それぞれが朝日に載ったやくさんのコメントを引用して論を展開すればいい。そうすれば、あのすがすがしいエンブレムが再び日の目を見るかも知れない。
かつては名文の典型とされた天声人語も、最近は駄文が続く。ために、私なんぞはほとんど目を向けなくなった。ねえ、天声人語の筆者さんよ、これまでの不評を一気に挽回するチャンスであるぞ!
他紙のコラム執筆者も
「朝日にしか載ってないからなあ」
などとケツの穴の小さいことを言わず、素晴らしい提言なら何処のメディアが報じようと評価する、程度の見識は見せて欲しい。
いずれも無い物ねだりか?
そして今日は、もうひとつ新聞ネタである。
東京新聞の「こちら特報部」は、記者の
「それっておかしくないか?」
という直感を大きな紙面を使って詳述するページである。
よく言えば、権威、権力を恐れず、メディアのあるべき姿を木訥に実践するページである。
悪く言えば、言葉だけの左翼跳ね上がりが跋扈するページである。
総論として語れば、どれほど跳ね上がっていようと、かつては、それなりに読みごたえのある記事を書いていた。だから、大好きなページだった。
だが、東京新聞の記者もサラリーマンである。人事異動は避けられない。人が入れ替わったためか、少しずつ紙面が劣化し、
「跳ねてりゃなんでもいいんだろ?」
というページに成り下がりつつあるとの印象を私は持つに至って今日を迎える。
その「こちら特報部」が今朝、鹿児島県知事の問題発言に噛みついた。
「高校教育で女子にサイン、コサインを教えて何になるのか」
という、レイのヤツである。
まあ、誰が見ても不見識な発言である。だから、鹿児島県知事をあげつらうのはいいとして、さて、問題はあげつらい方である。
この記事を通読すると、東京新聞の主張は2点に集約できる。
1点目は
「何いってんの。三角関数って役に立つんだぜ」
だ。それを証明しようというのか、
「三角形の性質をもとに地球から月までの距離を測れる。電波や音波などの研究開発にも不可欠で、三角関数がなければ携帯電話も作れない」
という誰かのコメントが載った。
おいおい、だからといって、みんなが地球から月までの距離を測るわけではないし、携帯電話を開発するわけでもない。つまり、大多数の国民には、三角関数は役に立っていないのは明らかではないか?
で、それだけでは知事発言をあげつらう根拠に乏しいと思ったのか、次にあげたのは
「役に立つかどうかで学問を判断するのはおかしい」
いやあ、あくまで一般論で言えば、学問とは何らかの形で役に立つものではないか? まったく役に立たない研究を、我々は学問と呼ぶか?
かつて、東京大学の教授が、心霊現象を研究した。かなり熱心にやって、本まで出版したと記憶する。だが、大学の教授がやった研究ではあるが、心霊写真や心霊現象の研究を、我々は学問と呼ぶか? 呼ばない。役にたたないからである。
偉大なる科学者であるニュートンは同時に、鉄くずや銅くずを金に変えるという錬金術に血道を上げた人でもあった。我々は万有引力の法則を発見したニュートンを科学者と呼ぶのに躊躇はしない。だが、もし、ニュートンが引力の法則を発見せず、近代科学の原点とも言われる「プリンキピア(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica)」を書かなかったら、さて、錬金術師でしかなかったニュートンを科学者と呼んだだろうか? ニュートンを学問を究めた人だと評価しただろうか?
やっぱり、我々は役に立つかどうかで学問を判断している。文学だって哲学だって歴史学だって、人間という生きものへの理解を深めたり、世に残る謎を解明したり、我々の来し方を知ったり、はなはだ遠回りかも知れないが我々の役に立っているはずである。株で必ず儲ける方法など、ノーベル賞を取った学者の目先で役に立つもの(もっとも、それでも株価は暴落し、彼らの理論に乗って運用していたファンドも大損をこいたが)だけが役に立つ学問ではないのだ。
加えて言えば、鹿児島県知事は、サイン、コサインが役に立たないとは言っていない。そんなものは男に任せろ、といっているだけである。つまり、男にとってはサイン、コサインは役にたつ、という前提で話しているのである。
ここまで書いてきたら、結論は目の前だ。
我々は、月への距離を自分で測ろうとは思わない。本を見れば約38万㎞と書いてある。それで十分である。携帯電話を設計しようとも思わない。実質無料でiPhoneだって手に入る。何の必要があってそんなものを、サイン、コサインを使って設計しなければならないか。
私がこの歳で高校数学に挑んでいることはすでにお知らせした。いまは「順列・組み合わせ」で頭を抱えているが、数ヶ月前は「三角関数」で目を白黒させていた。
確かに、高校時代にやった記憶がある。だが、その時蓄えたはずの知識の片鱗すら、私の頭に残っておらず、
sin(180°−θ)=sinθ(確かそうだったよね)
などという式は、毎回円を描き、ここがθとすると、これが180°−θになるから、y軸上の値は変わらないよな、と確認しなければ先に進めない体たらくだ。
それでも25才から66才まで働いてきて、三角関数が分からずに困ったことはない。
つまり、男であれ女であれ、大部分の人間にとって三角関数は役にたたないのである。
そうだね、私に三角関数の知識が役にたつとすれば、高校生になった啓樹や瑛汰が
「ボス、三角関数が難しいんだけど」
と言ってきたときに、
「よし、ボスが教えてやろう」
と胸がはれる程度のことでしかない。
だが、月への距離を本に書くには、どこかに正確に測った人がいる。それを検証した人もいて、間違いないと言うことで本に書かれるようになった。
その努力をした人は全員が男性か? そんなことはないだろう。女性だって、離れた2地点間の距離を正確に測り、それぞれの位置から見える月が水平面と作る角度を精密に測定して、サイン、コサインを使って距離を割り出す作業に従事したはずだ。
携帯電話の設計も、今や男だけの仕事ではない。数多くの女性が男性に混じり、ある時は男性を従えて、よりよき携帯電話お作りだそうと努力しているはずである。
つまり、鹿児島県知事の発言の問題点は、女性をバカにしたことであり、サイン、コサインが役にたたないといったことではない。東京新聞の記事は、トンチンカンな方向に向けて、勢いのいい批判を繰り出したようなものである。威勢の良さは認めるが、撃った先に敵はいない。
鹿児島県知事の不見識を笑うことは必要である。だが、笑うのなら、正確に笑わなければならない。
それがメディアで飯を食う人たちの、最低限の責任であると思う。