10.29
2015年10月29日 辺野古
で米軍基地移設のための工事が再開された。
前回の沖縄知事選で知事が代わって以来、政府と沖縄県の間で綱引きが繰り返されてきた。公約で辺野古移転阻止を掲げた現職の翁長知事は、多分、現行法の隅から隅まで読むことを官僚に命じ、すでに始まっていた工事を止める手立てを探らせ、一度は工事を中止させた。それに対して政府は対抗措置を講じて再着工にこじつけた。さて、これを受けて沖縄県はどう出るか。
丁々発止の攻防戦、知恵比べとも見える。
だが、何となくうさんくさくも見える。
沖縄県、翁長知事は、法律の隅から隅まで研究し尽くしたはずだ。
その結果、知事権限で埋め立て承認を取り消した。それで一時は工事が止まったのだが、政府=国道交通省がこの承認取り消しの効力を停止した。
ガチャガチャして分かり難いのだが、政府は合法的に工事再開の手続きを取ったわけだ。このあと、沖縄県は政府と地方の紛争処理を申し立てるそうだが、いずれにしても、法に定められた手続きに乗っ取ってそれぞれの主張を通そうとしているのである。
そこで分からなくなる。
先に書いたとおり、沖縄県、翁長知事は、現行法を可能な限り調べたはずだから、知事権限で工事を一時中止に追い込んだとしても、それを覆す法的手段が政府にあることは、とうに御存知だったはずである。つまり、一時的に工事を止めることはできても、長続きはしないことは百も承知だったはずだ。
これから申し立てる調停にしても、審査するのは国の機関である。だとすれば、沖縄県の主張が通ると楽観する人は限りなく少数であろう。
つまり、何をやっても結果は知れているともいえる。それなのに、翁長知事はなぜ動くのか?
と考えると、何だか、政治ショーを見せられている気分になる。
政府からすれば、辺野古移設反対を叫ぶ翁長知事の取りうる手段はすべて分かっている。翁長知事が何を仕掛けようと、工事は継続できると考えている。
一方の沖縄県、翁長知事も、何をやっても、最後は政府に、合法的に押さえ込まれることは承知の上のこと、であるはずだ。
なのに、なぜ政府と戦うポーズをとる?
沖縄県民のために、政府と一戦を交えた知事。そんなイメージが欲しいのではないか? であれば、戦いは派手やかな方がいい。政府と内々で話し合った上で、あらゆる局面で対立を演出する、結果は敗戦の将となるのだが、日本人は敗戦の将が好きである。
かくして、政府は汚名を身に纏いながら、だが、当初の計画通り辺野古に基地を移転する。
翁長知事は戦いに負けるが、県民の圧倒的な支持を手にする。あの、深い皺が刻まれた顔の裏には、したたかな計算があるのではないか?
という演劇が、政府と沖縄県、翁長知事三者共同執筆で出来上がっている。
とでも深読みしないと、いま沖縄県で起きていることが理解できないのである。
いずれにしても、一般の目には、工事の再開は政府のごり押しとうつる。夕食を食べながらNHKのニュースを見ていたら、確か静岡から来たという女の子が
「こんなに沢山の人が反対しているのに、工事を再開するなんて信じられない!」
てなことを言っていた。
「お前、アホか!」
と、若かりし頃の己を思い出した。そう、私自身がアホであった頃のことである。
まあ、確かにデモに出ていると、
「おお、こんなに我が同士はいるのか!」
と感動する。感動して、
「政府の横暴は許せない!」
と気分が高揚する。
「クソっ! 今日はパクられたってデモを貫徹するぜ!」
デモの渦中にいると、そんな高揚感がある。
その上、
「100人が街頭でデモをするということは、1000人の賛同者がいるということです。1万人のデモが組織できれば、我々は10万人の同士を持っているのです」
などと、冷静に考えれば何の根拠もない言説で我々を煽る人がいたものだから、なんだか街頭でデモ行進する自分たちが絶対的多数派で、安保条約の延長とか、米軍基地の辺野古移転とか、デモ参加者から見れば間違った政策を力で押し通そうとする政府は、少数でありながら暴力に頼る権力者に見える。
しかし、だ。冷静に考えれば、街頭デモ参加者の10倍の国民がデモ参加者の主張に賛同しているとして、10万人がデモをしたら、賛同者はたったの100万人である。1億2000万人の国民から見れば微々たるものだ。全国で100万人がデモに参加しても、賛同者は1000万人。これでもまだ、公明党の支持者より少し多い程度。いずれにしても、絶対的少数派なのである。
辺野古の工事現場周辺で何人がデモをしたのかは知らない。だが、デモ参加者+10倍の賛同者と考えても、辺野古の工事再開に反対するのは、少数派でしかないのではないか。
辺野古の工事再開に反対することに違和感はない。だが、熱い気持ちで反対運動に参加しても、頭脳は冷静さを保たなければ、有効な反対運動を組織することはできない。自分たちは少数派である。少数派が政府の政策に待ったをかけるには何をどうすればいいか?
「こんなに沢山の人が反対しているのに、工事を再開するなんて信じられない!」
などと意味のないことを口走るのではなく、己の主張を実現するためには、客観性を失わずに現状を把握する現実主義は身につけた方が役に立つと思うだけだ。
で、お前はどう思うか、だって?
残念ながら、いま考えを示す準備はできていない。いまの私は、起きていることを
「ああ、そうか」
と眺めるだけの傍観者に過ぎない。
いや、沖縄の過重な基地負担は大きな問題だと思う。できることなら、米軍基地は限りなく縮小するのが望ましい。
その私に
「だが」
と思わせるのは、ならず者国家に限りなく近づいている中国だ。極東地域にきな臭い火薬の臭いを振りまいている中国に対して何の備えもしなくていいのか? 完全なならず者国家と成り果てた北朝鮮も、この地域にある国家である。
備え。そう考えると、米軍の存在感は大きい。南シナ海での中国の横暴ぶりを、軍事力をもって牽制する動きに出たのはアメリカである。情けない話だが、様々な理由からならず者に身を落とす国がある以上、そのならず者にどう対処するかは、ならず者にはなれない国が引き受けざるを得ないのである。
で、これまで読んだ様々な言説から判断すると、沖縄というのは実にいい場所にあるらしい。軍事力で極東ににらみをきかせようとすれば、沖縄に基地を置くのが最も効率的だというのである。沖縄は、極東の扇の要とも言われる。
なるほどね、と思う。だが、私は中国に関して深く学んだことはない。従って、いまの中国が何処まで危険な国であるかは、私には判断のつかないことである。
また、極東に交番を置く際、フィリピンでも台湾でも鹿児島でも岩国でもなく、沖縄が最適地であるという判断も、門外漢である私には判定のしようがない。
従って、政府が米国政府と協議した上で進める辺野古への米軍基地移転について、私は主張すべき何物ももってはいない。であるから、中立の立場を取るしかない。
だが、だからであろうか。
沖縄県、翁長知事の姿勢に何となく胡散臭さを見いだしたり、反対運動に参加する人たちのひとりよがりが気になったりするのだ。
今日の日誌は、それ以上でも以下でもない。
そうそう、息子が持ち込んだCDのリッピング作業が終了した。リッピング後のデータ容量は87.4ギガバイト。次は、これをUSBメモリーに入れて息子に送らねばならぬ。
あ、そうそう。桐生市の友、O氏も待っているんだわ。彼には、外付けHDDにコピーして渡す予定である。