2017
10.02

2017年10月2日 国語

らかす日誌

今朝横浜から戻ってきた。土曜日から、瑛太の家庭教師としての務めを果たしてきたのである。

熟練の家庭教師は、1時間で8000円もの金をふんだくっていくそうだ。それに比べれば、瑛太の家庭教師である私の報酬はゼロ。土曜日から日曜日にかけて、かれこれ10時間は一緒に勉強したから、熟練の家庭教師であれば8万円の報酬を得ていたところである。
が、身内である瑛太の家庭教師となれば、報酬はゼロ。身内とは、経済原則から離れた人間関係をいうらしい。
もっとも、全ての人間関係が経済原則に則れば、世の中はパサパサした味気ないものになるだろうが。

学習項目は算数と国語である。中でも、今回は国語に力を入れた。

瑛太は小さな時から本が大好きであった。物心ついたころから、持ち主夫妻が桐生に転居した私の家で暮らしている瑛太は、私が残してきた膨大な蔵書をあこがれの目で見ていたらしい。
いつかはボスと同じように、いや、ボスよりもっとたくさん本を読む。瑛太の本好きは、そのあたりに根っこがあるように思う。

だから、私が横浜に行くと本をねだった。本となればこちらも買い与えたくなる。

「今日は15冊買うからね」

と、私のそばで意気込む瑛太に

「本というのはね、量で買うものではない。読みたい本があったら買う。読みたい本が10冊あれば10冊買っていいが、最初から15冊という買い方はない」

などといいながら、本がずっしり詰まった重い袋を抱えて変えるのが日常だった。
知恵がついてくると、瑛太は

「ボス、ブックオフに行こう」

といいだした。ブックオフならボスの財布の心配をしなくても、書店の2倍、3倍の本を買ってもらえる。それが瑛太の成長であった。

それが積み重なり、横浜で瑛太専用の本棚を作った。天井まで届く大きな本棚である。が、それもすぐに満杯となり、いまや書棚から私の本が徐々に取り払われ、代わりに瑛太の本が入り始めた。妹の璃子も負けず劣らずの本好きに育ち、ますます私の本が邪魔にされるに至っている。

祖父としては、実に頼もしい成長ぶりである。
本の所有者としては、

「くーっ」

という心境である。

それはそれとして、だから瑛太は国語の成績がよかった。ところが、問題が徐々に難しくなると成績が落ち始めた。あれほど本を読む瑛太の成績が何故落ちる?

瑛太の答案用紙を見た。なるほど、そういうことか。本が大好きな瑛太は、だが、国語の問題に答えるのが苦手らしい。確かに、本を読むことと設問に答えることは別の問題である。

と気がついた私は、この歳にして、小学生用の国語の問題集をいくつか買い集め、目を通した。その結果、目から鱗が落ちた。
あるのですねえ、国語の問題に正解するためのノウハウが。

まず、論説文、解説文では、設問に対する答はほぼ全て、問題文の中に書かれている。答は問題文のあちこちに散らばっているから、どこが答なのかを探すのがノウハウだ。
考えてみれば、論説、解説は、筆者の思いを正確に読者に伝えるための文章である。であれば、全ての疑問に対する筆者なりの答を、文章の中に全て書き込んでおくのが当たり前である。

「この設問は、AとBの2点について聞いている。では、Aの答に当たるのはどの部分か、Bの答はどこに書かれているかを探し出し、それを繋いで文章にすれば答になる」

一方、小説など文学的な文章は。
これはやっかいである。文学的な文章は、筆者の思いを行間に埋め込むことによって文学になろうとする文章である。登場人物は、そっぽを向いたり、声を落としたり、涙を流したり、暴れてみたり、様々な行動を起こす。が、その行動の意味が明瞭に文章化されることはまずない

「それを読み取ってね」

というスタイルをとる。だから小説は面白い、ともいえるが、それが国語の問題になると、

「うーん」

と考え込むことになる。
小説として読んでいるときは、登場人物の心理は何となく分かる。人と人の気持ちがすれ違うのも空気として感じ取れる。だから、ページをめくって次の展開を読むことができる。
これが国語の問題になると、読みながら

何となく分かった

つもりになっていることを、明瞭に文章にしなければ答にたどり着かない。書かれていないことは、己の人生、知識、教養、常識に照らして想像(創造?)するしかない。これは難しい。

ということが、小学生用の問題集で分かった。
なるほど。これまで無手勝流で挑んでいた瑛太が戸惑うはずである。
実は、国語の問題の解き方を、これほど明瞭に学んだのは、我が人生でも初めてである。大学を受験するときも、そんなノウハウはまったく知らなかった。知らずに大学の試験を受け、幸いにも合格した。しかし、ノウハウを知ったいま、

 「よく現代国語の問題が解けたなあ」

とゾッとした。現代国語なんて勉強したって仕方がないだろう。日本語が読めるんだから何とかなるはずではないか。と立ち向かったのが、かつての私だったからだ。
そうか、塾とか予備校とかいうのは、このようなノウハウを教えるところであったか。
こんなノウハウを知っていたら、現役で楽々と東大にも通っていたかもしれないなあ?

そのような準備を整えて瑛太と切り結んだ。問題を解かせ、一つ一つの答について、

「なぜこの答になるのか」

を追及した。瑛太が間違った問題は、

・どういう風に考えたからこれが答だと思ったのか。

 ・それのどこが間違っていたのか。間違いだと理解できたか。

 ・正解に納得したか。納得できなかったとしたらどこか

を一つ一つ書かせた。中には、瑛太と2人で

「この問題集の答はおかしいね」

と言い合ったものもある。

「問題集の答は中途半端。瑛太の書いた答の方がはるかにいい」

ものもあった。
瑛太は少しずつではあるが、国語の問題へのアプローチの仕方を身につけつつあるように思う。次に横浜に行ったときには、正解率が上がっているはずだと思いたい。

それはいいのだが、家庭教師としての予習をしながら、生来ひねくれ者の私は、

「国語の勉強を続けると、読書が嫌いになりかねないな」

と暗澹たる思いを抱いた。
研究者なら、小説であっても分析的に読むだろう。性格描写、情景描写、伏線の使い方、人間関係の造形などを一つ一つチェックするのが習い性になっているはずだ。そんな読み方をしていたら、読書に流れ場できない。あちこちでブツブツとちょん切られてしまう。まあ、それが仕事だからしかたがない。
しかし、私は研究者ではない。活字を追いながら一つの流れに乗って楽しめばいいのである。下手に分析を始めると、読書のリズムが崩れる。乗りたかった流れに乗れず、ブクブクと沈んでしまう。要は、読書がつまらなくなる。

例えば。

走ることが好きで、中距離ランナーだった女の子が、担当の先生にハードルランナーになることを強いられる。それほど好きではないハードルだが、彼女はそれでも、懸命に練習を重ねた。ところが記録会が目前に迫ったある日、先生は彼女に、思いがけない事を伝える。

「記録会からハードル競技がなくなった。だから800メートルに出ろよ」

さて、この時の彼女の心理は、次のどれでしょう?

小説として読めばあるいは面白いのかもしれないが、テストの問題では面白くなりかけたところで突然ストップがかけられ、考えることを強いられる。

それって、つまらなくないか?
それって、読書嫌いを増やさないか?

まあ、いまのところ瑛太は、読書嫌いになる気配はない。生あくびを繰り返しながら布団に入った昨夜も、横になるとすぐに本を開いた。

「眠いんだろう。早く寝ろ!」

「ちょっと待って! 瑛太、本を読まないと眠れないんだよ」

 「いいから寝ろ! 電気を消すぞ!!」

渋々本を置いた瑛太は、でも1分もしないうちに眠りに落ちた。
国語で頭を死フル回転することを強いられながら、でも瑛太の本好きは変わらないらしい。多少は救われる。

永田町の右往左往。本人達は必死なんだろうが、こちらから見ると漫画である。いましかないと解散に踏み切ったのに、実力のほどは分からないが人気だけは絶頂のおばさんに足下をすくわれてあたふたする人たち。そのおばさんのご威光にすがって議員の椅子を守ろうとするふぬけ達。おばさんに袖にされて焦りまくる人たち。くっついたり離れたりの人間模様が呼び起こすのは、嘆息ばかりである。あ〜あ。