2017
11.18

2017年11月18日 えびす講

らかす日誌

桐生は明日から、えびす講である。

そんなもん、民俗行事にトンと関心がない私にはずっと他人事であり続けた。わざわざ人混みの中に出かけてみてもたいしたものは売ってない。食ってみようかな、と思うものは「お祭り価格」でとんでもなく高い。

「関東最大のえびす講」

との声もあるが、それがどうした? こちとら、日本最大の不信心者なのだ!
お詣りして御利益? 神も仏も信じない私にすれば

「あんたたち、ホントにそんなモンがあると思ってるの? 自分の頭を疑って、勉強し直した方がいいんじゃない?」

といいたくなるだけである。

それなのに、なのだ。どういう訳か去年から、どっぷり桐生えびす講に浸かっている。今年も、頼みもしないのに、何故か「公式カメラマン」に2年連続で専任されてしまった。私に仕事をさせようという悪人は、例の元有力者O氏である。

ために本日も、桐生西宮神社まで出かけて昼飯を食ってきた。

「今日は準備なんだよね。それを撮っておいてほしいんだわ」

といったのは、O氏である。私は渋々でも、天下の専属カメラマンなのだ。断る術などない。このところ、何とも頼りなさを増した腰をなだめながら重いい一眼レフを首からぶら下げてシャッターを切りまくってきた。ふーっ。

明日は本番。初日が今年は日曜日で、悪いことに天気もいいらしい。2日目最終日は月曜日だから、恐らくほとんどの参拝客が明日押し寄せるのだろう。普段はまったく人通りのない桐生で、夕方の銀座以上の人混みを経験するのは‥‥、うー、腰を気遣いながら、人をよけながら、時には人にぶつかりながら、ぶつかられながら歩き回るのか? うん、やっぱり億劫!

それでも仕事である。朝8時頃には出かけねばなるまい。

とはいえ、桐生えびす講には桐生人の魅力が詰まっている。

明治31年(1898年)、当時街の中心部であった本町3丁目を大火が襲った。当時は軒から軒の木造家屋だ。金持ち、偉いさん、貧乏人の区別なく、63戸が全焼しちゃった。
町の繁栄の中心部が焼け野原になったら、普通なら町を挙げて落ち込む。景気は落ち込むよな。さて、これからどうやって町を再建する? 金かかるぜ。暗い顔が町中に溢れ、小声でボソボソ言い交わす旦那衆が随所に目につく、という風景を思い浮かべるのは難しくない。

ところが、どういう訳か桐生は違う。落ち込むどころか、

「えーい、せっかくの大火事だ」

といったかどうかは分からぬが、町衆が金を集め、兵庫県西宮市の西宮神社まで出かけて

「桐生にも西宮神社がほしいんだが」

と談判に及んだ。

御霊を分けていただく、今風にいえば西宮神社の出張所、あるいは支社を桐生に造る許可を得るのに、当時の金で479円も出しちゃった。いや、それだけじゃ神社ができるわけもなく、2269円かけて社殿を造り、279円を費やしてお祭りまで催した。いまの貨幣価値にすれば、恐らく数億円はかかっているはずだ。

それも、

「だから、役所も補助金を出して。補助率は高い方がいいんだけど。どう、補助率70なんて無理かね?」

なんて女々しいことは、当時の桐生人は考えなかった。すべて町衆の金である。町衆がドーンと出したのである。

もともとえびす信仰があった土地柄だから、西宮神社を招くのに違和感はなかったろうが、普通なら大火災で落ち込むところを、ドーンと金を出して神社をつくり、

「ほら、えびすさんが来ましたぜ。御利益でこれからも儲けるぞ!」

と心意気を見せつけた先人達。いまの桐生人に爪の垢を煎じて飲ませたくなる格好良さである!

と、私のような不信心ものも感じ入るのでありました。

まあ、そういうこともあり、明日は恐らく夜遅くまで仕事である。腰を大事にし、腰がぶつくさ言い始めたらささと仕事を切り上げようと思い定めている専属カメラマンが、さて、どんな写真を撮るのだろう?

去年頼まれた時、

「俺、写真は下手だからね」

とお断りは入れてある。下手な写真の4、500枚でお茶を濁してさっさとトンズラできないものか、と一晩かけて知恵を絞るはずの私であった。