2018
01.19

2018年1月19日 葬儀が済んで

らかす日誌

書かないわけにはいかないだろうな、と覚悟はしつつ、でも、なかなかキーボードに向かう気になれなかった。よって、日があいた。
母の葬儀を終え、17日に桐生に戻った。つまり、昨日、一昨日は「らかす日誌」を更新できる環境にいたが、しなかったのである。お待たせしてしまった。

15日が通夜、16日が葬儀という日程だった。
14日に大牟田入りした私は、自宅に泊まることはせず、大牟田市内にホテルを取った。いま、弟の妻が肺がんの治療中なのである。

着いたのは夕方だった。まず自宅に向かい、母の亡骸に対面したあと、弟にホテルまで送ってもらった。夜は弟、甥っ子2人と4人で外食。大牟田には、口に入れたくなる食い物がなかなかない。しかたなく、ひたすら酒を飲んで私はホテルに戻った。

翌日はホテルでまずい朝食を済ませ、礼服に着替え、黒いネクタイをポケットに詰め込んで、途中で書店に立ち寄りながら歩いて自宅へ。弟嫁の手を煩わせないよう、早めに昼食を済ませて行った。

着いても、やることはない。何となく雑談し、何となく本を読み、何となく周囲を散策する。
午後3時過ぎ、葬儀社が来た。通夜・動議の開場に母の遺体を動かすためである。
それを送り出し、

「さて、我々も」

と会場に移動。5時前、私の息子が東京から着いた。息子は前日夕、米国出張から帰国したばかり。しかも風邪気味で

「飛行機に乗るのがつらい」(なんでも、気圧の変化がいけないらしい)

と新幹線での大牟田入りである。間もなく、弔問客もぼつぼつ来始める。大牟田とは遠い暮らしを続ける私である。顔を見ても、どこのどなたかが判断できない。
しばらく同じ部屋にいて、弟に

「分からんとかね。柳川の○ちゃんたい」

といわれてしげしげと顔を眺め

「言われてみれば面影が残っているね」

と談笑を始める。
○ちゃんとは私と同い年のいとこで、小学生の間は仲が良く、頻繁に行き来して遊んだ仲である。それが、顔を見ても一目で判別できないとは……。
年月とは冷酷なものである。

20人に欠ける弔問客で通夜を終えた。
挨拶を言い渡されていた私は、

「人は2度死ぬ」

という話をしようと思っていた。1度目は生物としての死。2度目は、死者を記憶する人が死に絶え、死者を記憶する人が1人もいなくなった時である。

ところが、珍しいことに、先ほどまでお経を読んでいたお坊さんが、読み終わるとマイクを手に取った。

「ちょっと、私もひとこと挨拶ばしようと思うてですね」

キリスト教の葬儀なら、牧師が話をするのは普通である。しかし、浄土真宗大谷派の葬儀で僧が挨拶?
宗教も変わりつつあるらしい。

「この間、本ば読みよったらですね、人間は2度死ぬっち書いてあったとです。1度目は、人間として死ぬ時ですね」

ん? 人は2度死ぬ? なんだそれ、俺が話そうとしていたことじゃないか。

「2度目は、生きとらる人たちの記憶から消えてしもうた時、っちいうとですたい。読んで、なるほどなあ、と思うてですね。そりゃあそげんたい、と。ほっで皆さん、そげなことですから、亡くなられた方子(これで、まさこ、と読む。母の名である)さんば、みんなで覚えとってください。いつまっでん覚えとってください。皆さんが覚えとる間は、方子さんは死んどらんとですけん」

ありゃあ、かぶっちゃった。どうしよう?
と思う間もなく、私の番が来た。えーい、ままよ。

まず、弔問に来ていただいたことに感謝の意を表したあと、私はやっぱり2度死ぬに話を進めた。

「私も実は、人は2度死ぬとの話をしようと思っていました。ええ、私も人は2度死ぬと思います。生物としての死と、全ての人の記憶から消え去る死、です。でも、人の頭というのは不思議なもので、一度記憶したものは決して消え去ることはありません。忘れても、ある時不意に、フッと思い出す。人の記憶とはそのようにできているのだそうです。皆さんは母方子をしのんでお集まりいただいた。皆様の記憶には方子が生きています。だから、方子が2度目に死ぬのは、ここにいるみんなが死に絶える時だと私は思います。私は母を生かしたい。そのためには皆さんに長生きしていただかなければなりません。思い出していただかなくても結構です。ただ長生きしてください。その間、母は生き続けています」

終えて、弟家族と会食となった。我が息子も陪席したのはいうまでもない。
が、だ。まずい。田舎料理ってこんなに砂糖を使うのか。口に入れると砂糖独得の甘みが口中に広がって食欲を消す。息子も思いは同じらしい。ちっとも箸が動いていない。2人はひたすら飲むだけである。

弟家族は会場に泊まるという。9時半頃会場を引き上げてホテルに向かった私と息子は、着替えを済ませるやいなや町に出た。腹を満たさねばならない。
餃子を食い、チャーシュウでビールをあおり、ラーメンで納める。
ホテルに戻ったのは12時前だった。

翌14日は12時半から葬儀だった。それだけならいいのだが、朝10時から家族の会食があるという。旅立つ母との最後の会食、とか言っていたが、初耳である。葬儀屋さんはなかなかのアイデアマンだ。
が、こんな時間まで私の腹が持つはずはない。だから朝食はホテルでで済ませた。そして10時の会食。箸が延びるはずもない。

私の娘2人、その子どもたち4人が会場に着いたのは式が始まる直前だった。璃子と嵩悟が

「ボスー」

と走り寄った。
会場の入り口に、母の姿を捉えた写真のコラージュがあった。新参の6人はその写真に見入っている。

「そうだな、お前たち、こんな写真は見たことないかもな」

と声をかけると、思いもしなかった反応があった。

「おじいちゃんってこんな顔してたの。初めて見た」

ん? そういえばお前たちが生まれたのはオヤジが死んだあとだ。それに俺、40年前に死んだオヤジの写真は持っていない。そうか、だからか。

そばにいた瑛太に、

「これ、ボスだけど分かるか?」

と声をかけた、。指さしたのは、生まれたばかりの弟と父、母の4人で撮った写真である。60年以上前のものだ。

「分かったよ」

と瑛太が言った。

「ボス、イケメンだね」

……。

 

葬儀の参列者は20人強。
95歳まで生きるということは、兄弟がほとんど死に絶え、まだ生き残る兄弟もあちこちに病を抱えて動けないということである。
95歳まで生きるということは、親しかった友人のほとんどが先に逝ったということである。
95歳まで生きるということは、甥っ子や姪っ子もかなりの高齢になり、身動きが自由でない人間が増えるということである。
代々受け継ぐ家業もない95歳の葬儀とは、少人数でいとなまれるものである。

また私が挨拶に立った。

高等女学校を出たインテリで、多分お嬢様であったこと。それがとんでもない旦那と結婚して散々苦労をし、ついには女手一つで私と弟を育てたこと。

「やっとホッとしたのは、私たち兄弟が曲がりなりにも独り立ちして母の手を離れた時ではなかったでしょうか。それからの母はずいぶん明るくなったような記憶があります」

母は晩年、水彩画に楽しみを見いだした。スケッチ旅行にも出かけ、数多くの作品を残した。葬儀会場にも何枚かが飾られていた。

「ホッとした母は、多分それから、青春を取り戻そうとしたのだと思います。それが絵だったのでしょう。私たち兄弟は揃って絵が下手ですが、母の絵は、素人の私が見てもなかなかのものです。晩年の母は青春のど真ん中にいました」

そして、前日の2度死ぬ話を持ち出した。

「ずいぶん絵を残しましたが、まだまだ書き足りなかったというのが母の本音でしょう。昨日、母を記憶する人が死に絶えた時が母が本当に死ぬ時だと申し上げました。私は、もっと母に青春を謳歌させたいと思います。そのため、2度目の死をずっと先送りさせたい。そのためには、皆さんにできるだけ長生きしてもらわねばなりません。母の青春のため、健康でいてください。心からそうお願いします」

あとで聞いたが、嵩悟が涙ぐんでいたのだそうだ。
璃子は

「泣きたかったけど、ここで泣いちゃ行けないと思って我慢したの」

と母親に告げたと聞いた。

葬儀が終わると、私の子どもたちは自宅に向かった。子どもはまだ学齢期。瑛太は塾もある。息子は米国出張から戻ったばかりで、会社に顔を出す前に祖母の葬儀に駆けつけた。遠く離れて住むのだから、顔を出しただけに近い葬儀でも仕方あるまい。

あとは型どおりである。
焼き場に向かい、釜に入るのを見届けて弟たちと腹を満たしに出た。戻って骨を広い骨壺へ。葬儀場に戻って初七日を済ませ、残った親戚筋で会食。

こうして17日昼過ぎの便で羽田に戻り、横浜の自宅に置いておいた車で、雨の中を桐生に戻った。

3泊4日の旅。
特にやることもない日々。飲んで、食って、少ししゃべって戻ってきた旅。
それなのに、何となく疲れを感じるのはやっぱり年のせい?

40年前の1月11日に父が死に、今年1月13日に母が死んだ。

「ということは、次は俺たちの世代ということだなあ」

そんな事実に思い当たって、なんとなく荒野に放り出されたような寄る辺ない気分になった私だった。