2018
01.13

2018年1月13日 突然ですが

らかす日誌

九州の母が身罷った。今日の早朝である。大正11年4月の生まれで享年95歳。あと3ヶ月少々で96歳だった。

弟からの電話で知った。午前5時半頃か。すぐに起き出してストーブに火を入れたが、3時間たったいまでも部屋はまだ温まらない。寒い朝である。

母はずっと苦労をしてきた女である。
戦後、満州から引き上げてきたオヤジと見合い結婚して、私を生んだのが27歳。私のもっとも古い記憶は多分3歳か4歳頃(当時の私の記憶の断片はこちらへ)だが、当時の我が家は多少まともであった。オヤジは中学校の教員で、私たちは市営住宅に住んでいた。多分、母がもっとも幸せを感じていた頃ではないか。

間もなく、というか、すぐに、というか、我が家の暮らしは暗転する。オヤジは数年の満州暮らしでアル中になっていたらしい。それが再発するのである。学校へは行ったり行かなかったりで、やがて休職して市営住宅を引き払い、オヤジの実家、つまりじいさん、ばあさんとの同居生活が始まる。

私はいまもって、三世代同居は理想の住まい方だと考える。戦後、急速に働き人のサラリーマン化が進んで生家を出て働く男が急増した。加えて、嫁・姑の対立を嫌い、子ども世帯は独立すべきだとの考えが広まった。恐らく、経済環境の変化が先にあって考え方の変化が引き起こされたのだと思うが、いずれにしても世帯は親子だけ、子どもが独立すればジジババだけ、という暮らし方が当たり前になった。

私も、その波に乗って家を出た。私が選んだ仕事は生家に居続けてはできなかった。
それでも、世代から世代への知恵、経験の伝承には、あるいは家族で支え合うには、三世代同居が理想だと考える。ただ、一つだけ条件がある。子どもが生業につくことである。親たちは現役を退き、その後は子ども世代が暮らしを支えなければならない。
人は長い間、そのようにして暮らしを繋いできた。

私のオヤジには生業がなかった。食い詰めて実家に戻って三世代同居を始めただけである。これはいけない。暮らしが立ちゆきにくいこともある。だが、何よりもいけないのは、本来なら金を稼いで三世代の暮らしを支えるから生まれる、

「俺が一家の大黒柱だ」

という誇り、生きる実感が、オヤジは持てなかったはずである。だから、気持ちが荒れる。逃げたくて酒を浴びる。

こうしてオヤジは仕事を失い、ついには交通事故で片足が不自由となって、我が家は一時、生活保護世帯となった。私の中学生時代のことだ。

それまでも無事な暮らしが続いたのではない。私に6年遅れて弟が生まれた。オヤジのアル中という病はすでに暴れ出しており、私たちの暮らしはどこまでもすさんでいた。思いあまった母は生まれたばかりの弟を抱き、私の手を引いて国鉄(現在のJR九州)の線路までとぼとぼ歩いたことがあるそうだ。飛び込んで死のうと思い詰めたのだという。

ところが、途中で弟が火が付いたように泣き出した。あやしながら

「ふっと正気に返ったとたい」

とは、私の記憶にはまったく残っていない。私が40を過ぎた頃に、母がふと漏らした思い出話である。

オヤジが退院して、母は働き始めた。生命保険の外交である。世間の狭い母がどうやって勧誘していたのか、私はまるで知らない。でも、時折職場に母を訪ねると、明るい顔で笑っていた。それほどいやな仕事ではなかったらしい。

だが、

「こげんなっとなら(こんなになるのなら)、教員免許ば取っときゃよかった」

と漏らしたことがある。
母は、あの年代では珍しい女学校卒だった。成績の良さが自慢であったらしい。父、つまり私の祖父は教員で、多分は母、ある種のお嬢様育ちだったのだろう。自分で働くことなど念頭になく、教師の資格など考えたこともなかったはずだ。
それが、働かざるを得なくなった。生命保険の勧誘という仕事には、歩いても歩いても客が取れないこともある。そんなときに、ふと隣の芝生が綺麗に見えたのではないか。

さような暮らしなので、私立大学への進学など、考えたこともなかった。行けるとすれば国立。なにしろ、国立なら授業料は月1000円だったのだ。入学後は、授業料だけは母に頼ったが、仕送りは一切受けなかった。私に生活費を送るようなゆとりが母にあるわけがなかったからである。

母は多分、私も弟も、手塩にかけて育てる時間もゆとりもなかった。だが、幸いなことに、我ら兄弟は、何とか成長し、これまで長い間弟が母と一緒に暮らしてくれた。

オヤジはもう40年ほど前に67歳で死んだ。私は大学を出て仕事に就き、家族とともに三重県津市にいた。弟もすでに働き始めていた。
母の暮らしからストレスが取れたのはあれからではないか。子どもは何とか自立し、面倒を見なければならない寝たきりのオヤジもいなくなった。暮らしは豊かではなかったが、それなりに安定した暮らしが始まったのだろうと思う。

その後の母を、親不孝な私はほとんど知らない。自分の家族と仕事に追われ、顔を見に戻る回数も少なかった。ただ、私の銀行口座のカードを1枚余分に作って母に持たせた。金が必要な時は勝手に引き出して使いなさい。

それでも、引き出し額が月に3万円を超えることはなかった。1円も引き出していない月も多かった。私の暮らしに気を遣ってくれたのだろう。

晩年の母は絵を描くことに楽しみを見いだしていた。

「写生旅行に行きたかとバッテン」

と電話がああり

「多分、3万円では足りないのだろう」

と、必要額を引き出すように言った。
私はその程度の、実に情けない長男であった。

それでも、たまに私が戻ると、80歳を過ぎてからもバス停まで迎えに来てくれていた。

「今度は何日泊まらるっとね(泊まることができるのか)

と聞かれて

「今度も1泊だけ」

と答えると、

「少なかね」

というだけだった。


ふむ、何をダラダラと私は書いているのだろう? 私と母の関係なんて、他の人には何の関わりもないのに。
ごめんなさい。

入院した母を去年見舞った時、母はすでに私の顔が分からなかった。一緒に暮らしていた弟の顔も、見分けがつかないことが増えていた。

「近いな」

と思っていた母の逝く日が、今日になった。
先ほど電話で、弟に

「喪主はお前がやってくれ」

と頼んだ。親不孝な長男からのお願いであった。

しばらく、九州に行く。