2018
05.16

2018年5月16日 セクハラ

らかす日誌

ほほう、なるほどね。

今朝の朝日新聞、オピニオン面を読んでの感想である。テーマはセクハラ。3人の、世間的にいえば有識者(いやな表現だね)がそれぞれの見解を述べておられた。

ひょっとしたら、このような見解に異を唱える事も、セクハラと認定されてしまう、いや少なくともセクハラを認めてしまう人間だと烙印を押されることになってしまうのかも知れない。それは困るが、でも

ほほう、なるほどね。

は、ある種の違和感を伴う感想である。私はやっぱりセクハラ人間か。

有識者の一人、弁護士の笹山尚人さんによると、セクハラとは

「相手の意に反する性的言動」

なのだそうだ。
困る。そんな曖昧な定義で、この方は

「セクハラは人格を冒涜することであり、人格権の侵害にあたります」

と語り、文章の流れからすると、セクハラは犯罪であると断定されている。それは困る。
犯罪であれば、犯人は身柄を拘束される。権力による身柄の拘束は、人間の自由に対する究極の侵害である。だから、犯罪には明確な構成要件、つまり、何をしたら犯罪になるのか、を事前に明示することが必要だとは、近代刑法の基本的な考え方であると私は思っている。
その、大切な構成要件が、相手の意に左右されるのでは輪郭がぼやけてしまう。同じ言動をして、相手が喜べば、あるいは無視すれば犯罪に当たらず、嫌がれば犯罪。それが困る。犯罪を犯すまいとすれば、

「私はこれこれのことを、これからあなたに告げようと考えている。この内容は、あなたに対するセクハラに該当するか」

とでも事前にお伺いを立てるしかなくなるではないか。

この方は、こうもおっしゃっている。

「いまは結婚や出産に関する質問はアウト」

おいおい、この弁護士さんに言われるまでもなく、そのようなことはあちこちで聞く。聞くたびに、世の中がおかしくなっていると嘆くのが私である。
じゃあ、だ。久しぶりにあった友に

「えっ、お前、まだ結婚してないの?! 羨ましい!!

と話しかけるのはセクハラなのか。
混み合った電車で妊婦を見かけ、

「お腹が大きくて大変そうですね。私が座っていたこの席におかけなさい」

と声をかけて気遣うのはセクハラなのか。

それで気を悪くする人もいる、という反論が帰ってくるはずだ。だが、気を悪くする人は、本当に私がいったことで気を悪くするのか?

「なんだ、まだ結婚しないのかよ」

と話しかけられた若い女性が気を悪くする。それは、ある年代になっても結婚しない女性に対する、社会的な差別感があることが原因だと思う。一定の年代に達したら結婚するのが当たり前。結婚しないのは、その人に何らかの問題があるからである。それが通念となっている社会では、結婚しないこと、できないことでコンプレックスを抱える人が増える。まあ、それが結婚紹介業や婚活というビジネスを生み出しているのだが、それは横に置くとして、だから私が口にしたことは、彼女のコンプレックスを刺激する。

「それ、セクハラですよ」

と私が責められる。
だが、責められるべきは私の言葉なのか、結婚しない人にコンプレックスを感じざるを得ないようにした社会なのか。

結婚するかしないかは当人の自由である。あ、そ。あなたは身柄を拘束される結婚は避けて、自由に恋愛を楽しむ生き方を選んだのね。そうかあ、考えてみれば、結婚にはデメリットもたくさんあるからねえ。
そんなことが当たり前のこととして当たり前に会話に登場する世の中だったら、

「なんだ、まだ結婚しないのかよ」

はセクハラに当たるか。当たらない。

「え、あんたは結婚してるの。馬鹿だねえ」

という反応が返ってきて会話がはずむだけである。

ビデオリサーチの研究員、村田玲子さんのご意見にも一言申し上げたい。
この方は、CMや番組に、不快な表現が含まれていないかをチェックされているのだという。ご苦労様である。

さて、人はどのような映像、音声で不快感を感じるのだろう?
お挙げになっている例に、女性の唇を映した映像がアップになりすぎている、というのがあった。ふーん、そんな映像に不快感を感じる人がいるのね。
また、アルコールの広告(アルコールを広告するか? 酒類の間違いだろう!)で女性たちが性的なニュアンスで語りかけるのもアウトだと指摘されている。

そのようなものに私は不快感を感じるほど柔ではないが、その私だって不快感を感じる映像や音声はある。何とかという、恰幅のいい性的同一性障害者(といえばセクハラではないのかな?)が時折CMに登場すれる。けばけばしい化粧、派手を行き過ぎて下品になった衣装を目にするたびに、私は極めて不快になり、ここに書き記すのが憚られるような現で罵ることがある。

アナウンサーやテレビ記者の言動でも、不快感を感じることがある。例えば、ヘリコプターから渋滞する高速道路の映像を送りながら、

「東名高速は今、下りは平常通りの流れですが、上りは激しく混み合っています」

おいおい、それは映像で見ている。これ、ラジオじゃないんだから,目で見て分かることを言葉で伝えてもらわなくてもいいんだがな。

前にも書いたが、首長選があるとNHKのニュースは

「○○や××を巡って論戦が繰り広げられる見通しです」

という馬鹿の一つ覚えが必ず出る。おいおい、知事選、市長選で「論戦」なるものを経験したことがないぞ、俺は。候補者が何かしゃべってはいるが、耳当たりはいいが出来もしないことを勝手にくっちゃべってるだけじゃないか。あれが「論戦」か?
と、極めて不快になる。
だが、私の不快には、誰も関心を寄せてくれない。

とすれば、である。ハラスメントに当たるか当たらないかは、不快感を感じる人の数に依拠することになりはしないか。正しいか,正しくないかは決して数によって決めるものではない。地動説を唱えたガリレオは裁判で裁かれたが、地球は動いているのである。

大阪経済法科大准教授の菅原絵美さん。この方は教育関係者らしく、それなりに頷けることも語っていらっしゃる。一つ気になったのは、どう考えてもこの方は欧米かぶれではないか、の1点である。
非常に曖昧な、「国際社会」という言葉を使われていた。国際社会は人権意識が強く、日本は弱い、という文脈である。ほんとにそうかあ?
この方の頭の中では、北朝鮮や中国は「国際社会」の一員ではないらしい。欧米先進国だけが「国際社会」なのだろう。おかしな世界地図をお持ちの方である。

じゃあ、アメリカは本当に人権感覚が進んでいる国なのか。政府が個人の通信の秘密を明かすようIT企業に迫ったのはアメリカである。有色人種への差別感がどうしても払拭できないのもアメリカである。トランプのような差別主義者を大統領にいただくのもアメリカである。あれが人権意識が定着した国のありさまなのか。

国とは、一つ一つ性格が違うものである。どこかた日本を比べて、

「だから日本はだめなのよ」

といってみても始まらない。日本にはいいところもあれば悪いところもある。それだけのことである。
そして、日本の社会に困ったことがあるなら、日本型の解決法を探るしかない。アメリカでうまくいっているからと、その分だけアメリカのシステムを移入しても、背景が全く違う社会に移植されたシステムは働かない。働かないだけならまだしも、おかしな副作用を生み出してしまう。
欧米コンプレックスからは1日も早く抜け出さなければならない、と私は考える。

いや、つまらないことを書いてきた。疲れた。
が、書かねばならないと思ったのは、こんな言動を見逃していたのでは、日本社会から心地よい人間関係がなくなる、と危惧したからだ。
お産や結婚に言及するのは、相手のことを気にかけているからである。無事に子供を産んでくれればいいな、この子、結婚をしたがっているようだがまだうまくいかないのかな、と気になるから口に出る。それが禁じられれば、解決策は他人のことは一切気にしないこと、しかない。気にするのは自分と家族のことだけ。その他はどうでもいい。
これ、究極のエゴイズムではないか? エゴイストが寄り集まった国に日本をしたいのか?
一人一人が完全に孤立して、一切の人間的交流を排除する社会。私はそんな社会はまっぴらである。

そもそも、生きるということは多かれ少なかれ、他人に迷惑をかけることでしかない。迷惑をかけられた方は当惑し、不快に感じることもあろう。だが、自分が他人に迷惑を変えてしまうことだってあるのだ。
と思えば、相応のところまではお互いを許し合うしかない。相身互い、というのはそういうことである。

セクハラだ、パワハラだと騒ぎ回る連中は、究極のクリーン社会を作りたいらしい。だが

水清ければ魚棲まず

は、私たちが歴史から学んだ教訓であるはずだ。

行き過ぎた減菌、滅菌が様々の新しい病気の原因になっているとは、最近の医学的常識であろう。行き過ぎてクリーンな社会はきっと新しい社会問題を引き起こす。いや、昨日書いた

叱られることになれていない

若者には、その副作用が早くも出ているとも思える。

世の中、少しは目くじらを立てたくなることを許す程度のゆとりがあった方が住みやすいのである。