05.24
2018年5月24日 誕生日
半ば忘れ、半ば記憶していたが、一昨日、つまり5月22日は私の誕生日であった。69歳である。
69。英語で発音すれば何ともなまめかしい数字である。いまこれをお読みのあなた。ちょっと声に出してみません? やっぱり、声にするのはちょっと恥ずかしい?
というわけで、一生で一番色っぽい読み方の年齢になったわけである。がんばろ−!
悲しいことは、読みは一番色っぽくても、現実の69歳は、色っぽさとはますます縁遠くなっていることである。鏡をのぞき込めば、ますます単なるオヤジになって、ジジイ一歩手前の己の姿が、いやでも目に入る。女性を見てドキンとすることがほぼ皆無になり、粛々と余生といわれる時間を刻み続ける。
くーっ、つまらん!!
当日の夜、啓樹、嵩悟、瑛汰、璃子が
「ボス、おめでとう!」
と電話してきてくれた。
先週末に横浜を訪れた際は、璃子がプレゼントをくれた。肩たたき券4枚。横浜滞在中に1枚だけ使わせていただいた。
もう一人、当日の夜に電話をくれた方がいる。あのO氏である。
偶然だが、彼の長男は私と同じ誕生日を持つ不幸な男である。
そのO氏が、最近東京から桐生に引っ越してきたNew Commerと酒を飲んでいたらしい。私も一度お目にかかったことがある方で、どういう訳か、
「今日は大道君の誕生日で、私の長男の誕生日でもあるのである」
と、多分、話題に窮して話したらしい。普通なら
「ああ、そうなんですか」
で終わる話が、
「えっ、私も今日が誕生日なんです」
という意外な方向に発展し、私に電話をする気になったのだという。狭い桐生に同じ誕生日を持ってしまった男が3人もいる!
ま、桐生市には今年4月末現在、11万29189人の市民がおり、うち5万4429人が男であるから、統計的には150人ばかりの5月22日生まれがいることになる。それほど不思議なことではない。だが、この3人が知り合いだということになると、まあ珍しい部類には入るだろう。
「凄いね、3人だよ」
と電話のO氏は話を続けた。
「これ、やっぱり三馬鹿大将だよね」
同じ誕生日の3人がいたからといって、それがどうして三馬鹿大将になるのか。このあたりの論理は不明である。特に説明は受けなかったが、例え説明を受けても私の頭では理解が届かないと思われる。
何を考えてんだ、O氏!?
日大・アメリカンフットボール部の乱暴・狼藉が、あれこれ取りざたされている。幸いなことに私は当事者ではなく、知り合いにも当事者はいない。他人事だから、あまり関心はない。無謀なタックルをやっちゃった20歳の選手と、それをやらせたといわれる監督、コーチの話がすれ違っているが、まあ、当事者の話とはそんなもんだろう、と言う程度にしか首を突っ込んでいない。
ただ、連想したことが2つある。
一つ目はあの日大闘争である。1968年、20億円を超える大学の不正経理が明らかになり、学生だけでなく、教職員、父兄も巻き込んだ騒ぎになった。司令塔になったのは日大全共闘で、膨大なエネルギーが学園内だけでなく街頭にもあふれ出し、それが全国の大学の学園闘争に火を着けたことは、私たちの世代の記憶にくっきりと残っている。
あのころの学生は、ビビッドな感受性を持っていたなあ、と、ちっとも騒ぎが広がらない日大アメフト問題を横目に見ながら思う。まあ、これまでの報道を信じるとすれば、けしかけたのは大学の副理事長も勤める監督で、コーチがだめ押しをした。問題が表沙汰になると、責任は下へ下へと送りやられ、記者会見をした「加害者」学生は、監督、コーチの言葉を誤解する程度の知性しか持たないぼんくらにされてしまっている。
それでいいのか? 日大の学生諸君、怒らないのか? 学生を守るどころか、トカゲのしっぽみたいに切り捨てようとしている大学の体質を変えるために立ち上がらないのか? 私と同じように、君たちにもあれは人ごとなのか?
かつての日大全共闘を率いた秋田明大さんのコメントを聞いてみたい。彼は広島県で暮らしているというから、どこか彼を訪ねようというメデイアはないのかなあ。
そして二つ目。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」
古くからそういわれた。今回の日大が明らかにしたのは、この言葉は真っ赤な嘘である、ということだ。
ま、日本のアメリカンフットボールであるから、実力では本場アメリカのチームの足元にも及ぶまい。それでも日大のチームは、全日本で優勝を争っていたのだから、少なくとも日本の基準で考える限り、
健全なる肉体
を持った連中の集まりで、その中で試合に出るのだから、加害者とされている選手は日本でトップクラスの健全なる肉体の持ち主である。それを指導する監督、コーチも同様であろう。
そんな連中が、ルールを無視して相手チームの選手を壊しにかかる。殺す意思まであったかどうかは不明だが、少なくとも怪我をさせようと意図したことは否定できない。
これ、健全なる精神の持ち主がやることか? やったことは、そのあたりにうろつくチンピラと同じではないか?
考えてみれば、ロシアの選手はいまだにドーピング疑惑が消えず、国際試合ではライバルに禁止薬物を飲ませて失格させる試みがあとを絶たないといわれている。スポーツの世界に健全なる精神など果たしてあるのか?
スポーツマンで健全な精神を持つ人は、スポーツをしなくても健全な精神を保っている人と同程度にしかいない、はずである。
それを出発点にすると、スポーツで、トップを争う地位にある人たちには、健全な精神を投げ捨ててとにかく勝ちに行く誘惑が常に働く分だけ、一般人に比べて健全な精神を維持する人が少なくなるのが道理である。つまり、健全な肉体に健全な精神は宿りにくい、のである。
所詮、スポーツとはその程度のものでしかない。オリンピックでもワールドカップでも、
「その程度の連中がやっていること」
と突き放しながら楽しむゆとりがないと、なにやらおかしなことになる。
健全な社会とは、いたずらにスポーツマンを英雄視しない社会である、と私は思うのだが、いかがだろう?