06.27
2018年6月27日 町おこしの続き
今朝、愛車が戻ってきた。11日に修理に入って17日目。懐かしい。
この間、台車として乗っていたのは日産のNOTEであった。
まあ、何とも乗りにくい車で、ハンドルが上下には動くものの、前後には頑として動かない。私のように背が高いと、どうしてもシートを後ろに引かねば身体が入らないが、シートを後ろに引くとハンドルが遠くなる。両手を真っ直ぐに伸ばし、時には背中をシートから離さなくてはハンドル操作ができない。実に疲れる。この会社、いつになったらドライバーのことを考えて車を設計してくれるのだろうか?
常にブルブルビチビチ揺れる車である。路面がたいして荒れていないところでもこの震動が止まらない。乗っていて不愉快になる。疲れる。足回りの設計がおかしいのか?
動き始めがおかしい。アクセルを踏んでもなかなかエンジンの回転が上がらない。ために、
「これなら行ける」
と判断して右折を始めても、走るはずの車がなかなか走り始めないから対向車がブレーキを踏んでしまう。確か1回、対向車にご迷惑をかけた。申し訳ない。
という16日間で、車に乗るのが苦痛だった。やっと愛車に乗って、安心して運転できる。
とは、この愛車で事故を起こしてしまった私が言うべきではないのかも知れないが……。
というわけで、事故処理もとりあえず一段落した。一段落したら、書き忘れていたことがあるのを思い出した。タイトルにある町おこしである。6月9日の日誌で途中まで書き、飲み会に出かけていたのである。
満ちる月の次に来るのは欠ける月である。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
とは平家物語の書き出しで、世は常に移り変わり、栄えたものはいつかは落ちぶれるという歴史で何度も繰り返された真実を書き記したものだ。
だから私は予言する。
東京が没落する日が必ず来る。
それが世の真実であるはずだ。
いま東京は我が世の春を謳歌する。活力と刺激に満ちあふれ、世界1の美味が集い、全国から若者を吸い寄せる。東京は膨らむ一方である。
人が集まりすぎた弊害は多い。最大の問題は地価で、住宅もマンションも、真面目に働いていたら手が届くはずがない価格帯に張り付いている。交通は渋滞し、保育所はいくら順番待ちをしてもなかなか入れない。冷静に考えればこんなに住みにくい町はないはずだが、東京が発するフェロモンは弊害をカバーして余りが出るようで、人が集まり続ける。東京が膨らんだ分、地方都市の衰退が進む。それが今の日本の姿である。
だが、いつまでも膨らみ続けるGDPなどあり得ないのと同じで、いつまでも膨らみ続ける街はあり得ない。いつかは人口増が頭打ちになり、やがて減少に転ずる。それがいつなのか、どんなきっかけで起きるのかは分からないが、そのような流れがいずれ来ることだけは確かである。
東京から人が減るということは、東京人が地方に分散することである。だが考えてみて欲しい。いま地方都市は衰退する一方である。私が住む桐生市も、私の生まれ故郷である大牟田市も年々歳々、衰退が進む。
桐生市の人口はいま11万人。しばらくすると8万人になるといわれるが、8万人のほとんどが高齢者であれば、やがて5万人、3万人になることは避けられない。
ことが桐生市を含む地方都市だけの問題なら、
「仕方ない」
と済ませることも出来る。とにかく、何をやっても人口減が止まらない。打つ手がなくなれば、人は諦めるものだ。
だが、いずれ来る東京の崩壊とワンセットで考えればどうだろう。東京から人が流出する。流出するということは、東京ではない土地に新しい生活の拠点を作ることである。その受け皿は地方都市しかない。東京が人口が減る都市になった時、地方都市が衰退の極に達して、新しい市民を受け入れる力がなくなっていたらどうすればいいのだろう?
「だって、土地、空き地はあるじゃないか」
その通りである。桐生市にも空き地がどんどん増えている。移り住もうとすれば、済むところだけは簡単に、信じられないほど安価に手に入れることが出来る。
だが、生活の本拠にするということは、住まいさえあれば出来ることではない。住まいがあって、日々の糧を稼ぎ出す仕事がなければ暮らしは成り立たないのである。衰退が進んでしまった地方都市に、東京から移り住んでくる新住民を受け入れることが出来る職場があるだろうか? おそらく、ない。
では、どうすればいいのか。
いまは地方でも一極集中が進んでいる。北海道なら札幌市、東北なら仙台市、九州なら福岡市。だが、地方中核都市だけで新住民を受け入れきることも難しいだろう。とすると、途方中核都市ではない地方都市も活力を維持しているところがなくてはならない。
多分、それが町おこしなのだと思う。町おこしは衰退する地方都市の生き残り策であるだけではない。将来の日本の安定のために、やらなくてはならないのである。
といっても、町を興す燃料がある街と、どこを探しても薪一本落ちていない地方都市があると思う。何もなければ諦めることになる。だが、町中に転がっているダイヤモンドの原石に気がつかず、漫然と衰退を待っている町は非難されても仕方がない。力を尽くさず衰退するのは勝手かもしれないが、勝手に衰退されては将来の日本が困ってしまうのである。
さて、今私が住む桐生には、ダイヤモンドの原石があるのかどうか。探しているのか。見つけ出しても磨くことが出来るのかどうか。
探し、見つけ、磨く。それが、いま地方都市に住む、私を含めた住民の課題だと思うのだが、いかがだろう?