09.12
2018年9月12日 ナチス
いや、まあ。こんなにも同じ話が海を隔てて起きるものなのか。
昨夜、映画を見ながら不思議な気がした。
昨夜見たのはフランス映画で、
奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ(LES HERITIERS)
という。2014年の作で、監督はマリー=カスティーユ・マンシヨン=シャールという。私の知らない人だ。学園ものである。
パリ郊外の公立高校レオン・ブルムに荒れた教室があった。フランスはもともと多民族が暮らす国である。民族同士の反目はフランス社会も例外ではない。白人、黒人、アラブ系、東洋系。それぞれが民族のの歴史を抱え、個別の宗教を持つ社会は、何かとやっかいである。
その象徴がこのクラスだろう。授業中に帽子をかぶる。ガムを噛む。マニキュアを塗る。言い争いが始まる。立ち上がっての喧嘩も起きる。新任教師が来ると椅子の上に立ち上がり、座ると足を踏みならす。成績も学校で最低。手のつけようがない悪学級である。
担任は歴史、地理、美術史を教える教師歴20年のゲゲン先生。ベテランの女教師である。このクラスは学校中から問題視され、教師、父兄合同の会議ではいつもやり玉に挙がる。授業が成立しない、さっさと放校にしちまえ。様々な避難に、だが何故か、ゲゲン先生は動揺しない。
ある日のことである。ゲゲン先生は悪どもに呼びかけた。
「ねえ、全国大会にこのクラスで出ましょうよ」
全国大会とは、全欧州を奈落の底に落とし込んだナチスの問題について、若者としての考え方を発表する大会である。毎年5万人の高校生が参加するという。
「そんな、先生、俺たちには無理だよ。無理、無理。だって馬鹿ばかりだぜ、このクラス」
そんな悪どもの反応もゲゲン先生には全く応えない。
「やるのよ、みんな」
こうして、授業時間外を使ったナチスの横暴,中でもユダヤ人に対するホロコーストを調べる作業が始まる。最初の時間、参加者はたった2人だった。が、作業をしている内に1人、2人と集まり始め、結局クラス全員が参加する。
「ねえ、みんな。強制収容所って知ってる?」
知る悪はほとんどいない。知っている悪も
「あれ、外国のことだろ。フランスには関係ねえや」
「ところがねえ、強制収容所はフランスにもあったのよ」
そんなやりとりから始まったナチスの研究、ユダヤ人絶滅計画の調査に、何とあの悪どもがのめり込み、ベルギーのブリュッセルで開かれた全国大会で優勝してしまうのである。そして当然ながら、悪どもはすっかり素晴らしい学生に生まれ変わってしまう。
まあ、型どおりのシナリオである。おそらく複雑な家庭で育った子が多いのだろう。人生に目的を持てず、ただその日その日を、気ままに思ったままに、いい加減に生きていた悪たちが、自分をはるかに超えるナチスの悪を知り、強制収容所で生き残ったユダヤ人のおじいさんの話を聞いて、やっと
「人生とは、ほかの人の役にたつためにある」
と目覚める。安易な学園ドラマ、と受け取られても仕方があるまい。
ところが、なのである。これ、実話をベースにした映画なのだ。ということは、本当に起きたことが下敷きになっているのだ。エンドロールでは、このクラスの20人が大学に進学したとある(数は多さよう間違っているかも知れないが)。つまり、箸にも棒にもかからず、最低の成績しか取れなかった落ちこぼれ連中の多くが、卒業するときには優等生になっていたのである。
ということで、感動のドラマなのだが、実はあるアメリカ映画とそっくりなのだ。
その映画は
フリーダム・ライターズ(FREEDOM WRITERS)
である。こちらは2007年のアメリカ作品。監督はリチャード・ラグラヴェネーズという。ロサンゼルス郊外のウィルソン公立高校で起きた、やはり実話をもとにした映画だ。
白人と黒人の人種間の対立をそのまま持ち込んだような問題高校に、新任の女教師が赴任する。麻薬や拳銃による命のやりとりの待ったただ中で生きざるを得ない子供たちは荒んでいた。理想に燃える彼女は子供たちの瞳に輝きを取り戻したいと子供たちに日記を書かせ始める。
少しずつ心を開き始めた子供たちに、女教師は「アンネの日記」を読ませたいと思う。学校の予算では買ってもらえず、女教師はアルバイトをして全員分の「アンネの日記」を買う。それを読まされたことをきっかけに子供たちが変わり始めるのだ。おそらく、毎日死の恐怖と隣り合わせで生きざるをない自分たちと同じ運命をアンネに見いだしたのだろう。とうとう、アンネをかくまったヒースさんに会いたいと言い出した。そして、ヒースさんが学校にやってきてくれる。
こうして、社会のどん底で落ちこぼれていた子供たちが立ち直り、多くが大学に進学する優等生になるのである。
まあ、これほど似た映画があろうか。いや、これほど似た現実が、海を隔てたフランスとアメリカでほぼ同時期に起きていたとは。事実は小説より奇なりとはこんなことを言うのだろう。
どちらも、監督さんには申し訳ないが、映画としてみるとB級品である。成り行きの説明の仕方も、画面の転換も詰めの甘さを感じてしまう。が、それでも私の胸に迫ってきたのは、多分、事実の持つ重さである。すべての子供たちに可能性がある。教育は、やりようによっては子供たちの可能性を引き出すことが出来る。今日、明日をどう生きるかしか頭になかった子供たちにきちんと考える能力を自分の中に見いださせ、そのために努力をし、人のために何が出来るかを考えることが出来る人間に育てることが出来る。
昨夜、既視感に囚われながら
奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ
を見た私は、ある種の幸福感を味わうことが出来た。そして、暴虐の限りを尽くし、人間性のかけれ間もなかったナチスが、どん底にあえぐ子供たちを救い出す手段になっているのは何という歴史の皮肉なのだろう、と考えた。
「さて」
というのは、次に頭に浮かぶことである。
「日本の教育は大丈夫か?」
格差社会が進む日本は、いずれアメリカやヨーロッパのように多くの問題を抱えた子供たちが増えるだろう。いや、すでに増えているだろう。日本の教育はそんな子たちを救いだす手段を持っているのか?
無論、この2つの実話も全体から見ればほんの片隅で起きたことだろう。だが残念なことに、日本の片隅にも同じような嬉しくなる教育があるという話を聞いたり読んだりした記憶はない。
「ホロコーストは日本から遠いからな」
ホロコーストに変わりうる歴史を私たちは持っているだろうかと考え、やがて、日本の子供たちのためにホロコーストがもっと近くであれば良かったのに、と私の思考は進んだ。
広島と長崎の原爆はホロコーストに代わる教育の材料になるだろうか? あれは民間人を対象にした大量虐殺である。だが、日本の歴史学者は、広島、長崎をホロコーストと同様の歴史として書き残してくれているか?
そこまでで思考停止してしまった昨夜の私であった。今日も、その先には進めないままである。