2019
03.28

2019年3月28日 2日間

らかす日誌

桜は2日間でどれほど成長するのか?
ついつい、自宅前の桜の木を今日も観察してしまった。冒頭の写真が本日午後4時半ごろの状況である。2日前の写真と同じ処を同じアングルで撮った。

やっとつぼみがつき始めたようだった2日前と比べ、つぼみの膨らみがグンと増した。そればかりか、目をこらしてみると開花しているヤツもある。この季節、桜の変化は著しい。
このままなら明日にも「開花宣言」ができそうだが、天気予報だと明日から週末に掛けて冷え込むらしい。ということは、本格的な開花は週明けか?
昨年の4月1日には満開状態だった。今年は遅いのかな?

瑛汰と璃子、その一家が来て、去った。桐生の滞在時間、約3時間半。
たったこれだけの時間では何もできない。前回書いた店で昼食。家に戻って、しかしやることなし。瑛汰も月が変われば中学生。そろそろ自立の時期で、久しぶりにボスに会っても甘えることはできず、かといって話すこともない。誰もが通る時期とはいえ、本人も自分の中の変化に戸惑っているのではないか。

進学祝いを何にするかも決まらない。本人はスマホが欲しいらしいが、これは買い与えるかどうかは親が判断するもの。私が容喙するものではない。
代わりにパソコンを考えたが、本人は気乗り薄の様子。本人に欲しいものが見つかるまで、しばらく時間がかかりそうである。

璃子は、昼食の会席膳があまり舌にあわなかったようだ。まあ、動物性タンパク質がまったくない、いってみれば大人用の昼食だったから、まだ2年生(4月からは3年生)の璃子には無理だったのだろう。璃子、御免。

ただこの料理、私の舌にも「?」を残した。食材はほとんど近江から取り寄せているのだそうだが、料理人は桐生の人という。だからというわけでもないのだろうが、味付けが濃すぎて垢抜けない。1人前2300円の昼食がこの味では、多分私の足は遠のく。

「せっかくなら、近江から一流の料理人を連れてきてよ」

といいたくなるのは私だけ?
桐生における和食膳は、やっぱり「いかだ屋」に限るのかな?

一行は午後5時前、去った。去る前に全員で記念写真を撮った。

次に会うのは4月7日。8日が瑛汰の入学式で、瑛汰とママが出かける。その日から学校が始まる璃子の面倒を見るための留守番に行くのである。

 

この頃、テレビドラマのシナリオが気になる。なんだか視聴者をバカにしたようなドラマ造りが目につく。

といっても、私が見るのはNHKだけ。朝の帯ドラマと大河ドラマだけだから、私の思いはこの2つのドラマによるものだ。

大河ドラマ、「いだてん」は、熊本出身の金栗四三を徹底的に田舎者扱いする。東京高等師範に入ってずいぶんたつのに、いまだに熊本弁が全く抜けず、人付き合いも田舎者丸出し。いや、田舎者というが、こんなに素朴で純情で、人に対して全く悪意を持たず、お上手の一つもいえず、ただただドタバタと動き回って周りに翻弄されているだけの田舎者って、本当にいるのか? 明治時代には本当にいたのか?

私は福岡市にある大学に進んだが、入学したとたん、大牟田弁が消えて標準語をしゃべり始めたぞ。人付き合いだって、裏も表も見せて付き合わざるを得なかった竹馬の友の世界から、他人であることを前提として付き合わねばならぬ大人の世界に入れば、しばらく時間がたてば自ずと違いは了解されるはず。
なのに金栗は、ストックホルムにたどり着いても相変わらずドン・ファーマー(呑百姓)のまま。こんな究極の不器用さを持った人間って、本当にいたのか?

「ね、田舎者は徹底して田舎者として描く。その方が、みなさん、見ていて面白いでしょ?」

という悪意、田舎者を見下す傲慢さ思い上がりを見るたびに感じてしまう、田舎出身の私である。

キャスティングもひどい。中でも、ビートたけしの古今亭志ん生は最悪である。
志ん生といえば落語の名人である。それも、舞台に座っているだけで客席を笑わせ、満足させたという大名人だ。枯れているようで粘りがあるようなしゃべりは時として言語不明瞭だが、聞いていれば分かったような気になり、何よりも味があった。
なのに、ビートたけしの志ん生は……。

ひょっとしたら

「もう、志ん生の噺を記憶している視聴者はいない」

とで誤解したか。
あるいは、

「志ん生を覚えているような年寄りに見て貰う必要はない」

と切って捨てたか。
いずれにしても、落語という芸を頭からバカにしているとしか思えない。
そうそう、落語家役で出るほかの役者も、しゃべりはひどい。キャスティング担当、落語の「ら」の時も知らないのか?

朝の帯ドラマも同じである。チキンラーメン、カップヌードルの開発者の一生を追いながら、単なるドタバタ劇に終わっている。あんなにしょっちゅうドタバタしていた一家が、世界の食を変えてしまった発明ができたんかいな? と茶々を入れてしまう私である。

いま、夜の映画鑑賞は、日本の現代劇に集中している。たまりすぎたので

「少し減らさねば」

と思ってのことである。

毎夜連続して日本の映画を見ていて感じるのも、NHKの2つのドラマと同じである。あんたら、視聴者を、観客をバカにしていないか?

「この程度の楠切りを入れておけば、見るヤツは喜ぶんじゃないの?」

と思い上がっていないか?

総じて4畳半の狭い世界から出られないのは、監督の力不足か? それとも

「私小説こそが純文学である」

というおかしな歴史を持つ日本の映画だから仕方ないのか?

多少ましな映画でも、NHKのドラマに共通する臭みがある。

「ほら、この程度やっておけば、みなさん、満足するでしょう?」

という、観客を見下そうという姿勢である。観客と一緒に映画を楽しもうとは思っておらず、ひたすら

「俺はこんな映画が作れるんである!」

と自己満足に陥っている監督が多すぎるように感じるのは私だけ?
やっぱり、黒澤明は偉大だったなあ……。

後半は不平不満だらけになった。

「だったら、見なきゃいいだろ?」

という突っ込みを予想し、

「NHKは飯の友、映画は録画してしまった自分に対する罰」

との言い訳を用意する私であった。