11.16
考えてみれば、みんな「身の丈」に合わせて受験勉強をしているんだよなあ。
火勢はやや衰えたかも知れないが、萩生田文科相が「身の丈」発言で謝罪に追い込まれた。まあ、これで一件落着と行くかどうかは知らないが、私はむしろ、批判の仕方が何となく気になり続けている。何となく、空理空論が弄ばれているような、批判のための批判であるような、そんな気がしている。
発言は、大学入学共通テストに民間の英語試験を取り入れる(結果的に見送られた)ことについて、文科相がコメントした中にあった。
「身の丈に合わせて頑張って」
民間の英語試験にはかなりの費用がかかること、地方には泊まりがけでないと受験できないところもあること、などの問題点をつつかれての発言だったと記憶する。これが
「教育格差の是認」
として集中砲火を浴びた。
まあ、分からぬことはない非難だ、とは思う。しかし、
「だけどなあ」
という気分が残る。だって、英語のテストに民間試験が使われようが使われまいが、教育格差は厳然として存在するからだ。受験生は自分が置かれた条件の中で受験せざるを得ない。金のかかる英語民間試験の導入が検討されるずっと前から、この事実は動かないのだから。
だから、教育格差を今以上に広げようってか、という批判なら頷ける。だけど、すでにある教育格差は見て見ぬ振りをしてきたのに(いや、私は指摘し続けた、という人もいるだろうが、国民的課題にならなければ意味はないと思う)、いまさら
「教育格差の是認」
と批判するとは、どういうことだ?
例えば、大学生の家庭の収入を調べると、東大生の家庭が一番裕福である、とはずっと前から指摘されたいたことだ。つまり、学歴を金で買うに似た現実はずいぶん前からあった。つまり、中学、高校から進学実績の高い塾、予備校に通わせるだけの資力がある家庭の子供はそれだけで有利な立場に立って東大に合格する学力を身につけていた。
朝日新聞時代の先輩がこんな話をしていた。彼は東大卒である。
「一浪して予備校に通った。そうしたら、授業がわかりやすくてさ。しまった、現役のあいだからこの予備校に通っていたら、現役で通ってたって思ったね」
受験。予備校はその世界で実績を上げる、つまり、難関といわれる大学に教え子を送り込むことが使命である。また、企業としての経営を左右するカギでもある。必然的に、志望大学に通すための勉強の教え方を編み出すことに全力を注ぎ、ノウハウを積み上げる。受験のコツを教え込むことに長けた教師陣を取りそろえる。ここで教えられるのは、現代社会を生きていくために必要な知識ではない。志望大学に通るための知識である。大学受験に必要がない知識は無駄として切り捨てられる。
確かに、受験とは多くの場合、受験生の一生を左右するかも知れない大事である。子供に継がせる事業がないサラリーマンは、
「せめて学歴だけは」
と躍起になる。だから、そのニーズに目をつけた事業が生まれて育つのはやむを得ないのだろう。だから、一概に塾や予備校を非難しようとは思わない。
そうして、受験の成否が家庭の経済力に左右される基盤ができてずいぶん長くなる。それなのに、この問題を解決しなければという世論が高まったことは、私の記憶の限りではない。
加えて、受験生が暮らす地域にも左右されて来た。民間の英語試験という問題が起きるずっと前からである。
実績のある塾、予備校は都会に集中している。そりゃあ、塾も予備校も事業である。成長しようと思えば客がたくさんいる都会に立地する。有能な教師だって数に限りがある。都会の予備校に配属されるのはやむを得ないことだろう。
そのため、地方都市は手薄になる。都会から遠い不便な地方都市に住んでいれば、経済力のある家庭に育っても、実績のある塾、予備校に通うのは極めて難しい。
家庭の経済力と住む場所による格差。教育格差はこれまでも厳然と存在した。そして、これまで声高に論議されてこなかった教育格差の根っこの部分でもある。そして、恵まれない環境に置かれた受験生たちは、自力で
「身の丈に合わせて頑張って」
きた。それを可愛そうだとし、何らかの改善策が必要だという世論はちっとも沸き上がらなかった。文科相はこうして経緯を踏まえ、現実を素直に認めただけではなかったのか? これまでも教育格差はあったではないか。誰も問題にしてこなかっただろう? だったら、そのうえにもう一つの格差の元を積み上げたって何の問題がある? そう言いたかったのではないか?
おっと、こう書いてしまうと文科相を擁護しているように取られるかも知れないが、真意は違う。萩生田なんて見も知らぬ人間だし、どんな人間かさえ知らない。知っているのはテレビで見た顔と、今回の発言の主であることだけである。そして、教育行政のトップにありながら、教育を受ける子供たちを同じ条件で競争させる環境を整える努力をしないことには怒りを覚える。今回の違和感は、文科相発言への批判の論調の方にある。
批判しているあなたたち、あなたたちは我が子にどんな教育環境を与えてきましたか? 自分の子のため良かれと思ってしたことが、実は教育格差を助長したことがあるとは思いませんでしたか? 幼稚園への進学塾に入れ、小学校、あるいは中学校、高校から、大学進学実績を誇る私立に入れたりはしていませんよね? もしそんなことをしながら批判陣営に加わっているとしたら、あなたの批判の根っこはどこにあるのですか?
そういえば、共通テストに記述問題を採用することにも非難が集まっているようだ。野党は国会で追及すると息巻いている。
しかし、である。選択式だけの問題で本当の学力が判定できるのか、という批判はずっと前から存在した。受験生の表現力という学力を判定するには記述式の問題が必要だ、と。
そんな批判に押されたのか、文科省が記述式を採用するというと、今度は
「民間に採点を任せるなんて。記述式は取りやめろ」
の大合唱だ。記述式問題は必要で、でも民間に任せてはいけないのだったら、誰が採点する? 全国の大学の教授たちが一堂に集まって採点作業をするというのか? 大学の教授たちに任せたら、採点基準のバラツキはなくなるのか? バカも休み休み言って欲しい。
私は朝日新聞の入社試験で採点官をしたことがある。作文を読んで点数をつけるのである。できるだけ公平にしようと努力はした。だが、結果的に公平な採点が出来たかとなると、?をいくつも並べなければならない。
だって、採点官のそれぞれで文章感が違うのである。私が満点を差し上げた作文が、次の採点官にわたると(1つの作文を、確か3人が採点した)30点しかもらえないかも知れない。私が30点をつけた作文に、次の採点官は80点をあげたかも知れない。主観に頼らざるを得ない採点だから、そんなバラツキは必ず出るのである。
共通テストの記述式問題では、それほどのバラツキは出ないはずである。国語の問題なら、答に書き込んでおかねばならない要素が必ずある。それを漏らすことなく拾い上げ、正しい、人に通じる文章で書けば正解である。作文に比べた採点はずっと楽なはずだ。要素が1つ欠けていたらマイナス○点、日本語がおかしかったらマイナス○点、と決めておけば良い。それでも主観によるバラツキは出るだろうが、採点官の文章能力を事前にテストして一定以上の文章能力の持ち主を選べば、バラツキは目くそ鼻くそ程度で済むはずだ。
それではいけないのか? やっぱり選択式の問題だけにしなければならないのか? 選択式? 私の中学、高校時代、あるいは受験生時代、選択式問題で分からないものがあれば、えんぴつを転がした。これでも一定の確率で正解にたどり着くから、運、不運で、記述式の採点で出てくるバラツキ程度のバラツキは出る。それがいいというのか?
私は塾には一度も通ったことがない。地方都市の大牟田で、家庭は極貧だった。小学校、中学校、高校と地元の公立で、大学も国立である。つまり
「身の丈に合わせて頑張って」
来た1人である。
3人の子供たちは中学までは地元の公立であった。あとな本人たちの自由意志に任せた。長男は高校も地元の公立で、大学は
「国立なんてダサい」
とほざいて私立に行った。
長女は幼いころからピアノを続け、高校から国立音楽大学付属に進んだ。我が家の家系がパンクしそうになった。
次女も高校から私立である。何でも、制服が素敵だったのだそうだ。
おそらくこれも、
「身の丈に合わせた」
頑張り方であると思う。
さて、昨今の学入試にまつわる様々を批判されている方々は本当に教育の行く末を懸念されておられるのか、それともとにかく安倍政権を叩けばいいとお考えなのか。
本当に教育の行く末を考えるのなら、教育格差を根本からなくす方策を提言されてはいかがか。かなり難しいことで、私にはとても思いつかないので是非お願いしたい。
共通テストを問題にされておられる方がには、では、どうすれば大学の門戸はすべての受験生に平等に向き合うようになるのかを御提言いただきたい。選ぶことには必ずノイズがつきまとう。そのノイズを取り除く術があるのかどうか。
100人が教育問題を語り合えば、100人の教育評論家が生まれるといわれる。教育とはそれほど入り口の広いテーマである。私も100人の評論家の一人に過ぎないことは自覚しつつ、しかし、せっかく論じるなら本質的に論じていただきたいと思って長々と書いてしまった。
ここまでお読みいただいた皆様、はい、お退屈様でした。