01.30
気力の限界年齢を考えてみた。
夜、布団に入るのは12時前ということが多い。それからしばらく読書をし、眠気が漂ってきたら枕元のスタンドの電気を消して眠る体制に入る。時計を見るわけではないが、概ね12時半か1時頃だろう。わたしは、どちらかといえば夜型の暮らしをしているらしい。
昨夜もいつも通り映画鑑賞に時間を潰し、布団に入ったのは12時前だった。眠くなって灯りを消し、さて夢の世界に入ろうかというころ、ふと
「俺、いくつまで働くのだろう?」
という問が頭に浮かんだ。
ひょっとしたら数日前、件のO氏と話していて
「だけど、この年になってまだ働けているっていいことだよねえ」
と聞かされたからかも知れない。O氏も私と同じ1949年生まれである。
あるいは、桐生に来て10年近くお付き合いいただいている経営者の方々に、いつの間にか老いを見て取ることが増えているためということもあり得る。
それとも、どっかで自分の限界を感じ始めたか?
人生50年、下天のうちをくらぶれば……
と「敦盛」を舞った織田信長は50歳を目前に明智光秀に討たれた。本能寺の変がなければ、信長はいくつまで生き、いくつまで仕事をしたのだろう?
生きていれば天下を取ったに違いない。となれば天下人。上には誰もおらず、ストレスフリーの毎日だから、いまの私の年代までは一線に立って士気をふるっていたに違いない。しかし、75歳では? 80歳になっていたら?
私、現在70歳。5月になれば71歳である。悠々自適の年代ともいうが、そんなことをしていたら惚けが早まるだけだと嘯き、加えて年金だけでは暮らしが成り立たない(国民年金、介護保険料が異様に高い!)ので仕事を続けているが、いずれは悠々自適というか、何もしない暮らしに入る日が来るはずだ。いつのことだろう?
年々、体力が衰えてきていることは自覚している。しかし、私の主な仕事は取材をして原稿を書くことである。取材では出回るが、それが済めば自宅でパソコンに向かい、両手の10本の指を動かすだけである。それほど体力を使う仕事ではない。
となると、私の職業年齢限界値の決め手は気力ということになる。
大いなる野次馬根性で人の話を聞き、片言隻句をとらえて
「それ、面白い! もっと詳しく教えて」
と深掘りできるのはいつまでか。
「あなたの話はこういう風にも理解できる。だとすると、あなたが考えているよりもっと大きな話だと思うのだが」
と話し手の話を大きく膨らませる基盤をいつまで持ち続けられるか。
そして、聞き集めたデータを
「読む人に、正確に、面白く読んでもらうための一番いい表現をひねり出さないと次の仕事が入らないぞ」
と文章をひねくり回すスケベ根性をいつまで丸出しにできるか。
そうなのである。野次馬根性、スケベ根性が込められていない文章って、ちっとも面白くないのだ!
しかし、眠る直前に
「俺、いくつまで働くのだろう?」
と突然思ってしまうのは要注意である。気力が充実していればそんなことを考えるはずがない。頭のどこか、身体のどこかが気力の衰えを感じ始めているのではないか?
年々、外見を気にしなくなっている自分がいる。多少頭髪が伸びていても、無精髭が残っていてもあまり気にならない。衣服と靴下、靴とのコーディネーションが
「?」
でも、
「まあ、いいか。誰も見ないよ」
と気にしない私がいる。
おそらく、そうしたものがたくさん集まって、気力が少しづつ萎えていくのだろう、と思う。
さて、私はいくつまで働ける?
と書きながら、明日は新しい取材先と酒を飲む。北は北海道から南は九州まで、たくさんのバイク乗りがわざわざ訪れるカリスマ・バイクウエアショップの経営者である。私はこの人のことが知りたい。まず酒を飲み、話題をあちこちにふって彼の世界の全貌を眺め、来週から細かな部分の取材に入って全体像を確かなものにする。
ふむ、身銭を切ってそれだけのことをしようというのだから、まだ気力は健在か?
とりあえず、75歳を1つの節目にしようかな、とボンヤリ考えている私であった。