07.23
何も、家庭内ボクサーになろうというのではないが。
マウスピースを買った。そう、リングに立つボクサーがゴングの鐘の音に押されてリング中央に進むとき、口にくわえるあれである。口にマウスピースがあれば、強烈なパンチを顔に受けても、口の中を切る恐れが少なくなる。怪我の予防に欠かせないのである。
そのようなマウスピースを私が買った。妻女殿のDVに耐えかねて、せめて口の中の安全を守ろう、というわけではない。そもそも我が家はバイオレンス・フリーである。家庭内で暴力がふるわれることはまずない。
子育て中はないことはなかった。生まれ落ちた子どもは基本的には動物である以上、親による躾があって初めて人となる。だから娘二人も叩いたし、息子も叩いた。娘を叩くときは基本的にはお尻であった。見た目の美しさが女の最高の価値とは思わぬが、顔に怪我をさせるのはまずい。
息子についても、基本は臀部であった。頭、顔に手を出したこともないではないが、私のパンチはことごとくかわされていたような記憶がある。私、ボクサーになっていたら一生うだつが上がらなかったと思われる。
では、バイオレンスフリーの我が家に、なにゆえにマウスピースが必要なのか。
実は、私には歯ぎしりの癖がある。いや、昼間から歯をこすり合わせて研ぐのではなく、夜、眠りこんだ後でギリギリと歯をこすり合わせるらしい。だから、自分では歯ぎしりをするという自覚はないのだが、歯科医に
「ああ、歯ぎしりをされるようですね。歯が随分すり減っています」
と何度も言われたのである。
注意を受けたところで、なにしろ寝込んだ後の出来事である。昼間なら
「悪い癖を直そう」
と自覚的に取り組むこともできるが、何とも手の出しようがない時間帯であってみれば、何ともならない。そう思ってずいぶんたつ。
マウスピース
の使用をアドバイスしてくれたのは、歯科医である次女の旦那であった。
「お義父さん、今度の治療が終わったらマウスピースを作りましょう」
数年前の出来事だが、そのあと治療が続かず(私が行かなかったためである)、歯科医によるマウスピース製作は持ち越しになったままだ。
それがふと、
「そうか、何も歯科医に頼らずとも、マウスピースを買えばいいじゃないか。ボクシングでは必須の道具なのだ。売ってないわけはない!」
と思い立ったのは、かれこれ半年ほど前のことか。だが、私の歯ぎしり防止に対する熱意はそれほど強いものではなかったらしく、ときおり思い出すものの、パソコンの前に座るともう忘れている。あるいは、物忘れが友となる年代に達したということか。
というわけで、パソコンの電源を落とし、布団に入って読書を済ませて寝入りばな、
「そういえば、今日もマウスピースを探さなかったな」
と思い出した回数は数限りない。
4、5日前、やっとのことでパソコンの前で
マウスピース
を思い出し、Amaznに接続した。ある、ある。沢山ある。ベストセラーは2580円。だけど、たかが口の中でくわえるだけの代物に、それは高すぎないか? と考えた私が発注したのは、2個入り2070円の代物であった。それが昨日届いた。
しかし、人生に偶然とは付きものである。進化論でいえば、いまのところ人間が生き残っているのも様々な条件の組み合わせの中における偶然に過ぎず、深く愛し合う男女が出会うのも、生涯の友となる男に出会うのも、偶然である。
「僕たちが出会って愛し合うのは必然なんだ。生まれるずっと前から決まっていたことなんだ」
などというお為ごかしは、
イワシの頭も信心から
に似た思い込みに過ぎない。
いや、横道にそれた。元に戻す。
1週間ほど前から、私の口内で異常が起きていた。抜いた歯を補うべく設置されているブリッジが途中で折れたのである。1年ほど前に折れ、地元の歯科医を尋ねたら
「大道さん、これ、高級すぎてうちのドリルでは歯が立たないんだわ」
と、折れた部分を接着剤でくっつけるだけの治療に終わっていた。このブリッジ、次女の旦那が入れてくれた物で、なんでもセラミック製らしい。だから見た目は素晴らしいのだが、茶碗と同じで時として折れることがあるらしい。そしてセラミックだけに硬度は抜群で、抜群すぎてそんじょそこらのドリルなど弾き飛ばしてしまうのである。
その接着部分がはずれた。このままではブリッジの前部と後部がチグハグに動き、悪くするとブリッジを歯を痛めかねない。
「おい、歯医者を予約してくれ」
私は妻女殿に丁寧にお願いした。できることなら次女の旦那のところに行きたいが、彼は相模原市の歯科である。遠いし、一度の治療ではらちがあきそうにない。桐生ー相模原を何度も走るのは苦である。それに、このコロナ禍のなかでは移動も憚られる。そこで、妻女殿行きつけの地元歯科で治療しようというのだ。このようなことも起きようと、ここには、セラミックのブリッジでも治療できることを確認してある。
その予約時間が昨日午前10時であった。マウスピースが届いたのは午前9時過ぎ。これを偶然と呼ばずして何を偶然と呼ぼうか。
折れたブリッジの方は、歯科医によると
「これは大変です」
ということらしい。まあ、それはそれで治療するとして、椅子に座らせれて治療を受ける間、やっぱり雑談が飛び出す。私はふと
「そういえば、さっきマウスピースが届いたんですよ」
と口にした。
歯科医とは、口内に関することには強い関心を持つものらしい。
「え、マウスピース? 何にお使いになるんですか?」
そこで、私が歯ぎしりの悪癖があること、前々から寝るときにマウスピースを使うことを検討しており、それがつい先ほど届いたのだ、と経緯を説明した。
「いやあ、そんなマウスピースは考え物ですよ」
それほどまでに歯を大切にする私の行動を褒めてくれるかと思ったら、逆に叱られた。
「口の中の形は一人一人違います。だから最初に湯で柔らかくして形を取るのですが、そんな市販のものできちんとした歯形が取れるとは思えません。おそらく、誰でもがそこそこ使える中途半端なものであるはずで、あまりはにいいとは思えません」
大枚2070円もはたいて取り寄せたマウスピースへの評価は散々である。しかし、それほど問題があるとすると……
「こうしましょう。今回の治療が済んだら、うちでマウスピースを作りましょう。確かに、歯ぎしりをされる方はマウスピースがあった方が好ましい。マウスピースには保険もききますので、そうしましょう」
ということで、そうなった。せっかく取り寄せたマウスピースは、それまでのつなぎにすぎないことになったのである。
昨夜、そのマウスピースを加えたまま寝た。口中の違和感に眠りが妨げられはしないかと懸念していたが、ぐっすりと眠ったのは幸いであった。ところが。
朝目覚めたら、顎のあたりがなんだか変なのである。固い物を噛みすぎたときのようなこわばりが、顎の周りの筋肉に見られる。
「何でだ?」
とマウスピースを口から出しながら考えた。ああ、そうか、とすぐに納得した。
このマウスピースだと、上と下の歯のかみ合わせが普段とは違ってしまうのである。なぜか、下顎が少し前に出るのだ。
上下の前歯は、上が少し前に出て、下の歯が上の歯の内側に接するのが私の常態である。ところが、このマウスピースは、上下の前歯を一直線にしようとする。いつもは一歩下がっている下の前歯が前に出ざるを得ないものだから、その分だけ筋肉は違った動作を強いられ、いつもの場所なら楽にしていられる下の顎が、妙に緊張を強いられるようなのだ。
つまり、このマウスピース、出来損ないである。
どこの製品だろう、と取扱説明書を隅から隅まで見てみた。メールアドレスはあるが、メーカー名も産地の表示もない。ん? と思ってさらに読み進むと
「製品の老化促進を避けるように、70°以上の熱湯に入れないで下さい」
という注意書きがあった。どうみても変な日本語である。普通なら
「製品の劣化を避けるため、70°以上の熱湯は避けて下さい」
とでも書くところではないか?
ということは、これも〇〇製?
新型コロナを含めてなんでも〇〇のせいにするのはよくないことだが、何となく自然に〇〇が浮かんでくる時代に、私は生きているようである。