07.09
無観客でオリンピックをやるそうですが……
東京に4回目の緊急事態宣言が出るのに伴い、東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県を会場にするオリンピック競技は無観客でやることが決まった。さも苦渋の決断のように関係者はいうが、私にいわせれば
「何を今さら」
である。無観客で開くことより
「それでもやっちゃうの、オリンピックを」
という驚きの方が強い。だって、今の状況であえてオリンピックを開く建前が何処にもないんだから。
ここまで来る道のりを思い起こすと、何故か太平洋戦争の歴史を思い出す。
まずはコロナ対策。ガースー内閣の感染防止策をガダルカナル島の戦闘に例える言説は多い。そのたびに少しづつ戦力を投入し、闘う度に負けを重ねる。「戦力の逐次投入」と呼ばれる愚策である。感染者が増えると緊急事態宣言を出し、少し収まると、解除する。挙げ句は、Go toキャンペーンという犯罪的なことをやってのけ、
「ガースーよ、アクセルとブレーキを一緒に踏んだら、車はどうなる?」
と私達を驚かせた。案の定、患者数は再び増え始めた。戦闘に例えれば、負け戦である。
背景にあるのは、事実に基づいて政策を実施するのではなく、希望的観測に沿って政策を決める愚かさだ。
「ああ、新規感染者が減ってきた。これからも減り続けてくれるだろう」
という希望的観測なくしては、Go toキャンペーンなどやれるはずがない。日本の指導者には、いまだに
「いざとなれば神風が吹く!」
という神話が生き続けているみたいだ。あのキャンペーンがなかったら、今のコロナ状況はどう変わっていただろう?
オリンピックにしても同じである。ガースーの頭にあるのは、敵は幾万ありとても、何が何でも進軍じゃ、という浪花節でしかない。それに首相の座にしがみつく保身が絡まり合っているから、ますます具合が悪い。
そして、やることの裏付けは
「オリンピックまでにはコロナは沈静化しているはずだ」
という希望的観測、神風への盲目の信頼でしかない。
米英の兵隊は弱いはずだ、敵の兵力は小さいはずだ、という希望的観測で次々と日本兵を質に送り込んだあの頃の軍部と、ガースー内閣の違いを見つけるのは難しい。
ここに来て目につくのは
「もう引き返せない」
という虚仮(こけ)の一念である。
敗色濃厚、というより、誰の目にも負けが見えていた昭和20年、軍部は本土決戦を唱え出す。老若男女全国民は竹槍で武装し、上陸してくるであろう米兵に一人一殺の心意気で当たる。どう考えても正気の沙汰とは思えないが、軍部のエリートたちはそう考え、国民をそう動かした。この段階では、恐らく、希望的観測は持てなかったはずである。前途は真っ暗。でも、ここまで戦争してきたんだ、ここで止めるわけにはいかない。
その先に、広島があり、長崎があった。
さて、我らがガースーも、あの頃の軍部と何ら変わらないのではないか。
オリンピックに参加する選手の3割は、体調が変わるのを恐れてワクチンを接種しないだろう、という出場選手の話がある。であれば、選手と大会関係者しかいなくても、感染のリスクはゼロではない。それを見越してか、オーストラリアのテニス選手は、東京オリンピック不参加を表明した。
だが、ガースー首相は、このような「事実」に基づいて政策判断をしているとは思えない。見たくない事実は絶対に見ない。
「僕ちゃん、首相を降りたくない!」
「コロナ? 専門家という連中はいろいろうるさいことを言うが、何とかなるさ。選手は人一倍体力もあるから、感染したって発症しないだろう」
程度のことしか考えていないのだろう。
日本を太平洋戦争、第2次世界大戦に導いた指導者たちは、戦争のやめ方を具体的に考えてはいなかったといいわれる。収束が見えないコロナの蔓延の中で、オリンピックについて
「こういう事態になったら、オリンピックを中止するしかない」
という事前の腹づもりが何処にも見えない。太平洋戦争を率いた軍部と同じ資質を、私はガースー首相に見いだす。
このような、愚鈍以下の人物が、いま日本の首相である。これをどう嘆いたらいいのか?
それに、だ。観客が入らないオリンピック? 開会式も閉会式も、陸上競技も、無人のスタンドで粛々と執り行われる。選手たちもはしゃぐにはしゃげないだろうし、スタンドに手拍子を求める陸上選手が増えている今、スタンドからしわぶき一つ聞こえてこないグラウンドで、選手たちは気合いが入るのか? 抜け殻になったような選手たちの競い合いをテレビで見て興奮出来るか?
無観客で開くオリンピックは、絶海の無人島に各国代表選手とオリンピック貴族、それにスポンサー企業の代表者と取材記者、テレビカメラだけを集めて開催するオリンピックと全く同じである。不思議なオリンピックが、世界最大の都市東京を中心に開かれようとしている。