2022
01.15

年末年始と仕事の話です。

らかす日誌

年末年始とは、何となくoffという気分がする時期である。仕事をするのがなんだか悪いことをしているような気がする、年末の27日を過ぎると仕事がらみの電話をすることも憚られ、年が明けても松の内はやはり自宅に閉じこもって仕事先には電話すらしないことになる。

「お時間をいただけませんか?」

という電話は例年なら8日以降、今年の場合は11日が

「もう電話をしてもいいだろう」

という日となる。

という気分でいる私は、今週からそろそろ仕事を始めた。昨年からの約束で6日には沼田市まで出かけて仕事を1件こなしたが、その他は今週からである。すでに2件の取材をこなし、今日はその内1件を原稿にした。来週は火、木、金とアポイントが入っている。いま進めている桐生の職人さんの取材は、1つの原稿を書くのに5、6回取材を繰り返すので、これらを原稿にできるのは2月半ば以降か。
72歳。今年も働く私である。

年末年始と仕事、ということを考えてここまで書いてきたら、ふと昔のことを思い出した。1981年の年末から1982年の年明けにかけてのことである。

当時私は名古屋在勤で、トヨタ自動車の担当だった。東京に転勤した前任者S氏から引き継いだのは81年8月のことだ。
しばらく前から

「トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併するのではないか」

というのが担当記者の間でささやかれていた。そんな不穏な空気の中でのトヨタ担当拝命である。

「えっ、こんな時期に俺が担当? いやだな」

と考えた私は、恐らく記者にあるまじき性格なのだろう。記者なら、大きなニュースになりそうなことが目の前に転がっていれば

「俺がスクープしてやる!」

と勇み立つはずだ。なのに私は

「抜かれたらどうするんだ。俺に責任になっちゃうじゃないか。トヨタの合併を抜かれた記者、というレッテルが付いちゃう!」

と後ろ向きに考える人間なのである。恐らく、生まれた時から私の体内に巣くっていた弱気の虫は、私の体の住み心地が余程気に入ったのだろう。一向に転居する姿勢を見せず、すっかり我が友と成り果てていた。

抜かれる。その恐れに根拠がなかったわけではない。朝日新聞のトヨタ自動車担当記者は私1人である。商売敵である日本経済新聞の担当記者は4人。日経に水をあけられていた経済専門誌、日刊工業新聞ですら2人で体制だった。地元の中日新聞はさて何人いただろう。しかも、彼らはかなり長くトヨタ担当を続けている。今日からトヨタ担当になる私が、それも単騎で歯が立つとはとても思えない。
ああ、いやだ、いやだ。こんな仕事、いやだ。やりたくない!

とでも口走ったのだろうか。東京への旅立ちを前に、S先輩が言った。

「あ、大道君、トヨタ自工とトヨタ自販が合併する何っていうヤツが多いけど、絶対にないから心配しなくていいよ。トヨタ担当を楽しみな」

えっ、合併は絶対にない? それはいいことである。これで安心してトヨタ担当ができる。急に厚い雲から太陽が顔を出してさんさんと地上を照らし始めたかのような気分だった。合併さえなければ怖いものはない。トヨタ担当、気楽なもんだ!

浮かれすぎたのだろうか。私は大切なことを失念していた。この先輩、しばらく前にトヨタ自動車工業と米・フォードが合併に向けて話し合いを始めたという特大級のニュースをNHKに抜かれていたのである。
その日、NHK は午後7時のニュースの最初から3番目でこれを報じた。とたんに名古屋経済部員は全員駆り集められ、後追い取材に走り回った。後追い取材とは、他社が特ダネにしたニュースを追いかけることである。新聞とは、他社が書いても自分で確認できないことは記事にしないものなのだ。

「フォードと合併するってNHKがやってましたけど、本当ですか?」

と、トヨタ自工の幹部に確認を取りに走るのである。
といっても、この日私は取材陣から外された。まだ経済部に籍を置いて日が浅かったからだろう。こんなビッグニュースを、素人に毛が生えた程度の記者に取材させるわけにはいかない、というこか。
私は、夕食も取らずに取材に出ていった先輩方のために夕食を用意し(行きつけの飲み屋で作ってもらった)、それぞれの取材先に届ける役を仰せつかったのであった。

そんな先輩が残した

「合併は絶対にない」

という言葉を、私は迂闊にも信じ込んでしまった。この人がトヨターフォードを抜かれた人であることを失念した。いや、ひょっとしたら信じたいという思いがすべてを打ち消したのかも知れない。

信じてはいけなかった。新任のトヨタ担当として動き始めた私が、それを知るまでにそれほどの時間はかからなかった。間もなく私は、否応なく合併取材に奔走しなければならなくなったのだった。

いやあ、年末年始と仕事の話を書こうと思って書き始めたら、そこそこ長くなった。まだ1981年の年末まではしばらく時間がかかる。今日一日で書くと超大作となる。よって続きは次回以降とする。