05.01
「肌寒い」、より「寒い」という日ですね、今日は。
5月1日。季節を3ヶ月ごとに区切る習わしからすれば、春の最後にある月の最初の日である。それなのに、「肌寒い」を通り越して「寒い」。いま、外気温は9度。我が家は朝からストーブを焚きっぱなしである。
夏に例えれば、8月1日がエアコンなしで過ごせ、秋なら11月1日にエアコンを稼働させ、冬だったら2月1日に暖房なしで過ごすようなものだ。このところ、おかしな気候が続く。
整理が大好きな奥様がいらっしゃる我が家では、すでに半月も前に冬用品は仕舞い込まれた。ために、風呂上がりに身につけるパジャマは速くも春夏兼用のものに置き換わっている。上は半袖だ。
昨夜は半袖では寒かったからデニムの長袖シャツを引っかけて夕食を済ませ、ストーブに点灯したリビングで映画を鑑賞し、すでに冬用の掛け布団がないので、デニムのシャツを着たまま寝た。なんだか季節感がメチャクチャである。
それでも、とりあえず設備が整った家屋で暮らしているので、凍死しないだけありがたいと思わねばならない。
それはいいのだが、今朝見たトーク番組で、ギョッとする話を耳にした。わが国でも
核シェルター
の売れ行きが急増しているのだそうだ。
あるメーカーによると、これまでは1年間で120箇ほどの売れ行きだったのが、このところ月に170箇も売れているというのである(数字はうろ覚えです)。2、3人用で1箇980万円とか。ウクライナでの戦闘、ロシアの核による威嚇の影響らしい。
そうか、多少の気候の異変では凍死することはなかろうが、日本に核が撃ち込まれれば、いまの備えではひとたまりもあるまい。ロシア、中国、北朝鮮。きな臭さを増す国際情勢にすばやく反応する人が日本にもいるらしい。
思い立っても、とても980万円の支払い能力はなく、しかも設置場所すらない私は、成り行き任せにするしかない。とは思うが、嫌な時代になったものだ。
しかし、である。宝くじに当たって核シェルターが設置できるような広い敷地を購入し、地下にシェルターを設置した家屋を作るとする。その後日本が核攻撃を受け、シェルターに避難していた我ら夫婦は命を長らえたとしてみよう。何が起きるか?
もちろん、このシェルターには簡易トイレがあり、水道もある。非常用食料もストックされている。だが、である、お立ちあい。実際に核攻撃を受けた場合、直撃はシェルターのおかげで逃れ得たとしても、シェルターに何日止まっていればいいのだろう? 食料にも水にも限りがある。3人がやっと寝られるぐらいのシェルターにストックできる水と食料は何日分あるのか? 5日? 1週間? 10日? まさか1ヶ月分なんて入りきるまい。それに、1ヶ月も籠もっていたら、簡易トイレだけで排泄物を処理できるのか? 地上の放射能は何日待てば安全なレベルにまで下がるのだろう?
さて、食料も水も何とか足りて外の世界の放射能が安全レベルに下がったとする。ああ、やっとお日様が見られる! いや、そんなことはどうでもよろしい。水も食料も残り少ないのだ。買い出しに行かなくちゃ。
でも、何処へ行けば? 我が家は地下の核シェルターがあったから助かったのである。地上にあった我が家は原形をとどめてはいない。見渡す限り、地上の建物はほとんど全壊状態だ。原爆を落とされた後の広島の写真のような状況である。スーパーも商店もコンビニもグチャグチャ。とすれば、何処に行けば食料は手に入るのか? 水を補給する手段は?
と番組では触れなかったところまで考えた私は、考えた。
「核シェルターって、持つ意味があるのか?」
いや、個人で核シェルターを持つからそのような問題が起きるのである。ここは政府、自治体が前に出て、例え核攻撃を受けたとしても国民の安全を守る手立てを取らねばならない。公の負担で核シェルターを用意しなければならない。
という議論もありうる。
だけど、だ。1億2000万人が避難できる核シェルターなんてあり得るか? 1億2000万人が地下に潜って核爆発による被害とその後放射線による被害を避けるって、出来ることなのか?
「いや、核攻撃を受ける恐れのある都市は限られているから、そんな人数にはならない」
そうかも知れない。しかし、誤爆、ということもあり得る。最高の技術を持つはずの米軍だって誤爆で多くの民間人を殺している。技術的に劣るであろう中国、北朝鮮、ロシアの核ミサイルが、誤爆をしない保証はない。とすれば、何処まで核シェルターが必要な地域を広げる?
まず、東京は狙われるはずだ。だとすれば、誤爆の恐れは首都圏に広がる。首都圏の人口は約4400万人である。そんな核シェルターが構築できるか? 4400万人分の食料と水、排泄物処理を確保できるか?
恐らく不可能である。
首都圏だけでもこの有様だ。ほかに米軍基地のあるところ、自衛隊の基地……。核攻撃の目標はどんどん広がる。
やっぱ、無理でしょ。
となれば、である。飛んでくる核ミサイルを打ち落とす準備をしなければならない。イージスアショアを配備せよ! でも、命中率は100%ではないらしい。やっぱり、いくつかのミサイルは日本に届いちゃうのだ!
となれば、何が何でも事前に防がねばならない。
ということで、最近盛んなのが軍備増強論である。こちらに十分な反撃能力があれば、日本を攻める国はないはずだ、という論である。何でも、とりあえず防衛費を国家予算の2%に引き上げる。単純いにいえばいまの2倍である。その金で、仮想敵国に
「やってみやがれ。それ以上にやっつけてやるからな!」
と脅しをかけるわけである。
だが、これにも抜け穴がある。
かつて毛沢東は、
「中国に核を撃ち込まれて、国民の2000万人や3000万人が死んだところで、中国はビクともしない!」
という趣旨の発言をした、と何かで読んだ記憶がある。日本に比べれば、命の価格がずっと低い国らしい。さて、このような国に、軍備拡充で脅しをかける、という手法は通じるか?
と論理の筋道を辿ってくれば、答は1つしか思いつかない。
外交
である。外交でわが国が戦に巻き込まれるのを防ぐ。恐らく、これしかない。
とはいえ、茨の道だろう。にわか成金国が札束の力で低開発国を切り従えて行きつつある現状を見るだけでも、
「さて、どういう外交をやったらよかろう?」
と壁にぶち当たってしまう私である。それに、日本の外交官の能力はあてにしない方がいいともいわれるし。
第2次世界大戦の敗戦から間もなく77年。この間当たり前だった「平和」がいま、脅かされている。平和を維持していくには、いま何が必要なのか?
嫌なことだが、そんなことを考えざるを得ない時代に私たちはいるようである。