2022
05.27

セクハラ、ねえ。でも、被害を受けた記者たちは、なぜ自分のメディアで告発しないのだろう?

らかす日誌

私より5歳年上の細田博之衆議院議長。記者を相手にセクハラ発言を繰り返したとして週刊文春に叩かれている。
ご本人は

「事実無根」

と真っ向から否定しておられるが、さてどうなのだろう? セクハラを受けたという記者が録音でもしていない限り証拠はないわけで、悪くすると

「言った」

「言わない」

の水掛け論に陥りかねない。
どう決着するのか、今から予想するのは難しいが、少なくともこれまで

「いや、細田はそんな男ではない」

という擁護論が一つも聞かれないところをみると、身から出たサビ、という一面があるのだろう。しばらくはあちこちでいじり回されるのだろうなあ、ご老体。

それにしても、週刊文春が正しいのか、それとも細田博之議長の冤罪なのか。文春が正しいとしても、言葉だけによるセクハラなら、受けた方が気分を害するだけで、それ以上の被害はないから、私はたいした関心はない。80歳を間近に控えて、いまだに煩悩から離れられない元気さがチョッピリ羨ましいだけである(私もセクハラをしたいということではない。念の為)。ご本人は、一刻でも早く108つの除夜の鐘を聞いて、煩悩から逃れたいという所か。

ただ、気になることがある。被害を受けたといわれている女性の方々が記者である、という点だ。
記者と記者ではない人の違いは何か。自分で使えるメディアを持つか持たないかである。これは世の中の人々に知らせなければならない、という事実に出会ったとき、取材して記事にする、あるいはテレビ記者ならニュースで流す。己が属するマスメディアを縦横に使えることが、記者の最大の特権である。

それなのに、被害を受けた女性記者たちは何故、自分の属するメディアで細田氏を告発しないのか? どうして自分の属するメディアを使わず、週刊文春の取材に応じるという形で細田氏を告発するのか?
その1点を考えると、事件の報道され方が本道を踏み外していると思えるのだ。踏み外しているのは週刊文春ではなく、取材・報道が使命のはずの記者たちが、自分では取材・報道をしていないことである。

自分が受けたセクハラだけでは読者・視聴者への説得力が足りないと思ったのか? しかし、足りないと思えば取材をすれば良い。他社の女性記者たちに

「あなたは被害を受けたことはない? 私は〇月△日にこんなことをいわれて」

と聞き回るのである。それが取材の基本ではないか。

報道しようとしたら上司に止められたか? 結果的にせよ、これだけの騒ぎになっている事件である。もし止めた上司がいたとしたら、上司である資格などない。1人の上司に止められたら、ほかの上級者に訴えてなんとか報道に持ち込むのも記者の役割だと思うがどうだろう?

1人だけで週銀議長と闘うのが怖かったか? であれば、心情として分からないでもない。しかし、それならなぜ週刊文春の記者に話したのか? 2人目、3人目の被取材者なら

「被害を受けたのはあなただけではない。すでに▢▢さんから詳しい話を聞いている」

と説得されて話す気になったのかも知れない。しかし、最初に取材を受けた女性記者はそんな説得を受けたはずはなく、己の判断で取材に応じたはずである。だったら、なぜ自分の文章で、自分の属するメディアで報道しなかったのか?

以上が、私の抱く疑問である。
だから思う。報じられていることのどれほどが真実なのか?

今からでも良い。週刊文春の取材に応じた女性記者たちは、自分の属するメディアで、具体的に何が起きたのかを報道して頂きたい。そうすれば、もっとクリアカットで事実が見えてくるだろう。

細田衆議院議長のセクハラ犯罪を報道するテレビニュースを見ながら

「このテレビ局の女性記者も、ひょっとしたらセクハラの被害者だったのでは? だったら、その記者を出せば説得力が増すのに」

と不思議な気がしてしまう私なのである。